教養学部報
第589号
<時に沿って>銀杏の香りに誘われて
寺尾 潤
平成二八年九月一日付けで、総合文化研究科広域科学専攻・教授に着任した。異動はこれで五度目となる。両手に抱えきれない異動の挨拶状を鞄に入れ、前所属の京都大学で愛用した自転車に乗り、芳しい香りがする駒場のイチョウ並木を駆け抜ける。母校(豊中高校・大阪大学)の校章も銀杏であり、この香りにはどことなく親しみを感じる。つくづく多くの出会いの上に今の自分があると一通一通に思いを馳せる。
大阪万博が開催された年、日本最初の大規模ニュータウンである千里の地で私は生まれた。幼稚園から大学まで全て自宅近くの学校に通い、通学定期は一度も持ったことがない。学生時代までの私にGPSがついていれば、まさに点でしか表示できない人生であった。
当時まだ竹が生い茂る未開拓の地で好奇心旺盛な少年時代を過ごした。振り返ってみれば人の考え付かない発想で新しい遊びを考え、友達を喜ばせることが大好きだった。整備された遊び場もなくあるのは自然だけという環境がきっと今の自分を育んでくれたのだと感謝している。発想次第で無限に楽しめるこの体験は化学実験と時に重なる。
博士課程では化学者としてのセンスの有無を確かめるべく、修士課程まで行ったヘテロ原子化学から遷移金属化学へと分野を変え、学位取得を目指した。自ら考案した研究テーマがトップジャーナルに掲載され、学会発表でも高い評価を受けたことが大きな自信となり、アカデミックの道へ進む決意をすることとなる。日々の研究から好奇心がどんどんと駆り立てられる興奮は今も昔も変わらない。独自の発想で面白い研究をすれば、正当な評価が受けられる研究職は私にとってまさに天職だと考える。
学位取得後、私のGPSは大きく動き始める。博士課程の経験を踏まえ、札幌、大阪、オックスフォード、京都へと異動する度に敢えて新しい研究分野へ飛び込んだ。北海道大学博士研究員の頃は錯体化学に従事し、大阪大学助教時代はアニオン性錯体を活性種とする均一系触媒反応の研究を行った。オックスフォード大学留学を機に超分子化学の研究を新たに開始し、京都大学准教授時代は機能性高分子の研究を行った。
「自分の発想が一番面白い」どこかでそう思いたい根拠のない自信は、多くの異分野の研究者たちとの出会いにより、大きな勘違いであったと思い知らされることになる。彼らの独創的なアイデアに触れることで、そこから新たな発想が生まれ、さらに研究の面白さを感じられるようになった。私の研究者人生において、この出会いは最もかけがえのない財産である。様々な分野が集結するこのリベラルな駒場の研究環境は、私のような経歴の研究者には最高の場であろう。さらに多くの人々との出会いの中から益々心躍る研究に取り組み、人生を楽しみたい。
空っぽになった鞄を背に懐かしい香りがするイチョウ並木を抜け、立ち上がったばかりの研究室に向かう。ここから新たな研究分野の開拓に挑む。
(広域科学/相関基礎科学)
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