HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報590号(2017年2月 1日)

教養学部報

第590号 外部公開

<駒場をあとに> 教育・研究の「自由」 ─セルバンテスの教え

上田博人

毎年この時期の『教養学部報』で駒場をあとにされる先生方のお言葉を拝読してきて、いつか私も書く時が来るだろう、と想像していたが、いよいよその「時」がとても速く到来した。

未来を想像するときの「時」は長く、過去を振り返る「時」は短く感じられるものだ。子供のときから期待することは待ち遠しかったし、それが終わってしまえば瞬く間に過ぎ去ってしまったと思うことばかりだった。とくに自由に楽しく過ぎた時間は夢のように短く感じられる。

私が駒場に着任した一九八八年から現在までの二十九年間はとても速く過ぎた。その間仕事や趣味を楽しみながら多くの方々に助けていただいた。職場の同僚の先生方、事務職員の方々、スペイン語や言語データ分析の授業を受講した学生たち、研究仲間、友人たち、現地の取材や学会で多くのことを教えていただいた方々、そして家族に心から感謝の言葉を捧げたい。

振り返ってみると私はとてつもない幸運に恵まれ、東京外国語大学→東京大学教養学部・地域文化専攻→総合文化研究科・言語情報科学専攻→情報学環・学際情報学府という道程で教育・研究活動を思う存分展開できる場所を次々に提供されてきたと思う。

東京外国語大学では大学院を修了してすぐ教壇に立つことになった。たしかに外国語教授法について英語の先生から教わってはいたものの、そのときは音声学が重要、というぐらいの認識しかなかった。その後、教えながら文法と語彙にも配慮が必要だと思うようになった。学習スペイン語文法の難関は動詞の形態変化である。動詞ごとに変化形が八十七個もあり個別に覚えられないので不規則活用も含めた規則の体系的な理解が必要である。とくに語根母音変化が困難を極める。そこで大学院生のころ五つの類型を整理し、従来の強勢規則と新たに語尾規則を加えてすべての語根母音の活用形を導出できるようにしてみたのだが、教師仲間たちからは複雑だと言われあまり採用されなかった。しかし、どの職場でも私自身の教え方については完全な自由を認めていただいた。

私が専門としてきたことはスペイン語学と言語データ分析である。研究テーマを自由に選択でき、強制されたことは一度もなかった。地域文化専攻に所属していたときは主にスペイン語の変異について研究した。各地域のスペイン語を調べるためにはヨーロッパ・アフリカ・南北アメリカ・太平洋地域にまたがる広大な領域を見なければならない。科学研究費を使ってスペイン語圏二十か国の首都を個別に全部調査したが、それでも僅かなことしか知りえなかった。そこで現地の協力者を募り毎年郵送法によって語彙のバリエーションを追っていった。成果をインターネットで発表すると合衆国の小学生が宿題で私たちの資料を使っていたことを仲間から教えてもらうことがあった。また、昨年スペインの通信大学の大学院生が同じ資料を使って博士論文を仕上げたので私はその審査委員になった。

一九九八年に言語情報科学専攻に移籍し「言語データ分析」を担当することになったとき、研究の重心を地理的変異から歴史的変化に移した。四十年前のスペインでの長期研修のときに知り合ったスペイン人の友人たちが現在各地の大学でスペイン語文献学を講じながら大量の公証文書をデジタル化している。それを続々と送付してくれるので非常に助かっている。彼らの支援により、それまで手がつけられなかった歴史的テーマが扱えるようになったので、文字と音韻の関係や前置詞の語形変化などについて発表した。自分でも十三世紀から十九世紀までを代表する文学作品の手稿・初版の最初の二万字をデジタル化した資料を作成し、彼らの公証文書資料と比較した。

四年前に情報学環・学際情報学府の流動教員となってからは情報科学の演習として言語データ分析のためのプログラミング法を説明した。同時に、手元にはスペイン語の変異・変化に関する資料が多くあるので、その検索システムと統計処理のプログラムを開発したくなった。言語現象と歴史・地理・文体・個人・書体の属性間の関連を多変量・多次元で同時に分析する方法を考えた。はじめはウェブプログラムに適したPHP言語を使ったが、現在はウェブページ上のさまざまなオブジェクトを自由に操作できるJavaScript言語によるプログラミングに熱中している。

この歳になっての私の夢は収集した資料の整理と視覚化のシステムを完成することである。幸い駒場の情報基盤センターに置いたウェブページ(http://lecture.ecc.u-tokyo.ac.jp/~cueda)は退職後も使わせていただけるそうなので更新・追加の作業を継続していこうと思う。

私は教育・研究には駒場のように責任を伴った「自由」があるべきだと思うので、最後にMiguel de Cervantes, Don Quijote(II, 58)の言葉を引用したい。La libertad, Sancho, es uno de los más preciosos dones que a los hombres dieron los cielos.「自由は、サンチョ、天が人々にお与えになった最もありがたい恵みのひとつなのだ。」

(言語情報科学/スペイン語)

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