HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報591号(2017年5月 2日)

教養学部報

第591号 外部公開

<本の棚>子規と漱石 ─友情が育んだ写実の近代

田尻芳樹

漱石は昨年が没後百周年、今年が生誕百五十周年で関連の行事がいろいろと開かれているようだ。新しい全集も岩波書店から出始めている。ここ数十年の新しい漱石研究を牽引してきた小森氏がこのタイミングに合わせて出版されたのがこの『子規と漱石』だ。

一八六七年という同年生まれの子規と漱石は二人が第一高等中学に進学してからの一八八九年頃知り合う。この年、子規の文集『七草集』への評で夏目金之助は初めて「漱石」という号を用いた。子規は漢学と英学の双方に傑出した漱石に一目置くようになり、漱石は結核に悩む子規を元気付けるかのように彼に俳句の師匠になってもらう。時は明治二〇年代、近代日本語がまだ確立されておらず、小説とは何かが根底から議論され、「言文一致」がさまざまに試みられていた時代である。本書は、二人の書簡などを通じて、二人が互いを思いやりながら友情を深め、新しい文章と文体の確立を模索した様を丹念に跡付ける。

しかし、本書の読みどころは、子規が「写実」という概念を軸に、どのように俳句、短歌、散文に革命をもたらしたかについてのきわめて詳細な分析である。つまり主役はあくまでも子規であり、また彼の「写実」、特に「写生文」である。ところで「写生文」の文学史的位置づけにはややこしい議論がある。かつて江藤淳は「リアリズムの源流」(一九七一)で、(子規のとは異なる)高浜虚子の写生文がリアリズムの萌芽になったことを鮮やかに論証した。柄谷行人は「漱石とジャンル」(一九九〇)などで、漱石にとって写生文は近代小説が抑圧した「文」と「ジャンル」の多様性を解放するものであり、そこから出発した彼の作品は近代小説の否定であると大胆に論じた。そもそも漱石自身が「写生文」というエッセイで自分の見解を披露しているのだが、それと子規の写生文との関係、漱石自身の小説との関係はどうなのかが問題となる。

しかし本書はその種の問題には潔く背を向けて、子規の写生文の分析に集中する。前半で俳句と短歌の革新を検証した後、第五章では『小園の記』という庭を描写した文章が、複雑な時間構造を内在させた新しい日本語の創出になっている様を、「き」「けり」「ぬ」などの助動詞に細かい注意を払いながら論証している。『漱石論─二一世紀を生き抜くために』(二〇一〇年)を始め最近の小森氏の著作ではポストコロニアリズムやカルチュラル・スタディーズが方法論として目立っていたが、本書はむしろ、若いころテクストの言語学的分析で鳴らした小森氏を彷彿とさせる。第六章では『叙事文』を俎上に乗せて、視覚性が強調されがちな子規の写生文が実は『古今和歌集』や能などの文学的記憶を共振させることで機能していること、さらに病床にある自分自身の記述が世話をしてくれる母や妹を始めとする他者との関係性に開かれていることを明示する(これら二点は江藤が子規ではなく虚子に見出していた特質だ)。晩年ほとんど寝たきり状態だった子規が、痛みと死の不安に直面してなお病床の自分を書き続ける壮絶な姿を、第七、八章は、やはり精緻なテクスト分析を通じて浮かび上がらせる。一九〇二年九月、ついに死去、享年三十四歳。「僕ハモーダメニナツテシマツタ」で始まる子規からの最後の手紙をロンドンで受け取った漱石が、頼まれた「倫敦消息」もう一通を書かなかったことを悔やみ、その手紙を『吾輩は猫である』の「中篇自序」で引用した経緯について分析する終章は、二人の友情のただならぬ深さを感じさせて感動的だ。ちなみに俳句雑誌『ホトトギス』で『猫』の連載が始まり、漱石が小説家デビューしたのは一九〇五年のことだった。

今も大人気の漱石の文業には若いころの子規との交流が不可欠だったこと、また、私たちにとって自明の近代的日本語は彼ら明治の文豪たちの格闘の上に成り立ったことを本書は改めて教えてくれる。また、テクストを言語学的に丹念に読解することで、見えていなかったものが見えてくるスリリングな過程を堪能させてくれる分析的批評の好著でもある。

(集英社新書、二〇一六年)小森陽一 著
 

(言語情報科学/英語)
 

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