HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報594号(2017年7月 3日)

教養学部報

第594号 外部公開

<時に沿って>巣立ちの道のり:墜落するものには翼がある!

金 伯柱

私自身を自ら異邦人と呼ぶにはどこか不自然な気がする。十年も日本で暮らしてきた外国人が「私は異邦人だ」と言うと、日本生活に不満があるように思われるからだ。特に不満があるわけではない。あるとすれば、むしろ巣立ちを恐れて、ねぐらに安んずる小鳥のような弱い心だけだ。私の異邦人たる所以は、社会の不条理とか不適応だとかいった大げさなことにはない。人生の中の馬鹿げたことから常に逃げようとする私自身への不満にあるのだ。
駒場との因縁もそういうものだと思う。

私は、留学生として長らく駒場で育ててもらい、辛うじて独立した研究者という肩書きを得たわけだが、不思議なことに私にとっての駒場は未だに不慣れな他郷のように感じられる。留学生出身だからではない。何かまだ私自身を「駒場出身」と紹介することに違和感を覚えるからであろう。私は、非常勤講師の経験を除けば、これまで駒場を離れたことがないのだ。

着任が決まるまでの心境は複雑だった。実は、去年初冬、秋までは帰らないと我を張り続けていた私は熟慮のすえ、韓国に帰ろうと決心し、引越しの準備にかかった。国に帰っても浪人であることには変わりなかったが、当時の私にはこれといった選択肢がなかった。今思えば、せかされたその時の決心は勇気を出したというよりは、身を隠そうとしたものに他ならなかった。

そのとき、駒場に残れる「幸運」が訪れたのだ。

採用の連絡を受けたとき、感謝の意を表さずにはいられなかったが、それと同時に何とも言えない心持ちの揺れがあった。巣立ちして独立したい気持ち、もう少し巣で保護を受けたい気持ち、そして寸分の不安が共存していた。巣立つべき運命の小鳥のように。これが最も率直な気持ちだった。
駒場を出るのがこれまで独立した研究者、教員としての歩みを見守ってくれた多くの方々に対する恩返しになるはずなのに、再び巣に戻り、もう少し準備する時間が欲しいとせがむ身となったのではないかと思うと、心の片隅に不自然さが残るのは避けられなかった。

ただ、逆説的に、助教でよかったとも思う。助教は言葉通りアシスタントを主務とする教員だ。依然として巣立つ準備をするが、その中で僅かながら恩返しの役割が与えられたことになる。遅れ遅れになり続ける巣立ちの道のりが、ことによると私自身の選択ではないかという自責の念を持ち続き、今ようやく前向きな結論に辿り着いた。墜落するものには翼があることに気づかせる機会を与えてくださりありがとう、と。

結局、いつか駒場を去ってはじめて、私は駒場出身だと躊躇いなく語ることができるだろう。そして駒場は、やっと巣立った小鳥の故郷になるだろう。

(地域文化研究/法・政治)

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