HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報597号(2018年1月 9日)

教養学部報

第597号 外部公開

駒場をあとに「思えばいろいろありました」

刈間文俊

駒場に教員としてお世話になって三十年、ここまで曲がりなりにもやってこられたのは、多くの方々に助けていただいたおかげと感謝しています。中国ばかり見て来た私を、表象文化論の立ち上げから加えていただき、そこでの刺激に満ちた論議に終電を忘れた日々も、今は懐かしい思い出です。

駒場に入学して中国語を始めた頃は、履修する学生も少なく、中国語をやってどうするのと言われたものでしたが、半年後に日中国交回復となり、今度は先見の明があると話がひっくり返りました。一九七二年のことです。それ以来、似たような体験の繰り返しだったように思えます。

次にひっくり返ったのは、学部の最後の年です。毛沢東の死後、毛派が一掃される政変が起きた時、訪中団の随行通訳をしていた私は、毛派の根拠地の上海で、権力の崩壊を目の当たりにしました。市内を埋め尽くす壁新聞を、一週間にわたり読む機会に恵まれ、叛乱に失敗した民兵司令の自白書など、その生々しい内容は、文革幻想を打ち砕くには十分でした。この一週間がなければ、大学院で中国の同時代文学を学び直すことはありませんでした。

中国映画史に興味を持つようになったのも、一九八〇年代に入り、それまで中国で封印されてきた『田舎町の春』(一九四八)などの名作を知り、革命映画史がひっくり返ったことによります。中国映画史を書き直す作業は、いまだ道半ばですが、幸い、今年九月に鎌倉の川喜多映画記念館で「中華電影とその時代」という企画を催し、一九四〇年代の日本軍占領下の上海映画の再評価を中国の研究者と一緒に行うことができました。

中国という隣の国を見る目が、何度もひっくり返ったのは、私にものが見えていなかったからですが、そのつど中国の方との出会いが私を助けてくれました。大学が長期の休みになると飛んで行った一九八〇年代の北京で、私は楊憲益さん宅に居候させてもらいました。中国文学の英訳者として知られ、文革中は英国人の奥様ともども投獄されていた方です。そこは、北京の文化サロンでした。毎晩のように多くの芸術家が集い、その自由でユーモアにあふれる洗練された会話は、竹林の七賢を思わせるものがあり、私は居ながらにして中国の文人文化に触れ、目を啓かされる思いでした。

一九八〇年代の北京は、あらゆる芸術のジャンルで若い才能が開花したときでもありました。同時代文学を追いかけていたら、目の前に面白いものが噴出してきたと言えばよいでしょうか。研究対象とすべき人々とつきあうことは、距離感を取りづらくします。しかし、陳凱歌と一緒に阿城の家に押しかけ、彼らが『子供たちの王様』(一九八七)の映画化を論じあう場に同席する魅力には勝てませんでした。
距離の取り方をはっきりと意識したのは、一九八九年の天安門事件からです。悲劇的な事件を前にして、私は傍観者でしかなく、それゆえ傍観者であり続けようと考えました。目をそらすことなく、見つめ続けること。それでもなにかできるのではないか、そう思ったことが陳凱歌の自伝につながりました。

『私の紅衛兵時代─ある映画監督の青春』(一九九〇)は、彼が初期の三部作を撮り終え、『さらば、わが愛 覇王別姫』(一九九三)に取りかかる移行期に書かれました。文革の少年時代を振り返る作業は、時代の転換に際して書かれるべくして書かれたものです。その企画と翻訳に携わったことは、いわば彼との二人三脚に近い思い出となっています。
一九九〇年代の後半から顕著になった中国の反日のうねりは、世紀をまたいで反日デモとなって爆発し、日中関係は最悪となりました。友好ムードは過去のものとなり、嫌中という言葉が流行り、中国語の履修者も減少しました。この逆転の波のなかで、ささやかでもなにかできないだろうかと思いました。

東大と中国の橋渡し役は、蓮實総長時代に北京大との連絡を担当してからですが、東大の北京オフィスの開設を経て、EALAI(東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ)さらには現在の教養教育高度化機構のLAP(リベラルアーツ・プログラム)と、教育交流の仕事に携わることができました。TLP中国語も確かな足取りで発展しています。この流れがさらに大きくなっていくことを、心から願っております。
若いときの出会いは人生の宝です。学生交流に少しでもお役に立ちたいと思うのも、若いときに尊敬できる方と出会うことを、日中の双方に期待しているからです。

東大の学生はその期待に応えてくれると信じています。かつて、駒場学寮の廃寮問題を特別委員会の一員として、十一年間にわたり担当したとき、いまは死語となった感のある団交を三四〇回以上やりましたが、そのとき真剣に議論し合った元寮生の一人から、数年前に結婚式に招かれました。事情を知らない司会者が私を「大学の恩師」と紹介した瞬間、その場にいた元寮生たち全員と新郎、そして私も声を揃えて「違います!」と叫び、大爆笑となりました。楽しい思い出の一つです。
これまで本当にお世話になりました。皆さん、ありがとう。

(超域文化科学/中国語)

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