HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報598号(2018年2月 1日)

教養学部報

第598号 外部公開

駒場をあとに「惜別の辞に代えて」

高橋宗五

人生の記憶を遡り、その最も古い記憶から現在までを人生とすると六十年ほどになる。そのうちの半分ほどを駒場で教師として過ごした。大学入学が一九七一年であるからかれこれ五十年近くに亙り内部からあるいは外から東京大学や駒場を見てきた。随分変ったものである。入学当時はまだ木造の建物がキャンパスの中に残っていたが、そのうち木造の建物はなくなり、駒場寮も取り壊され、キャンパスは小綺麗になった。しかし外見はともかく内部はどう変ったのであろうか。

前期課程ではドイツ語と文学や演劇論の授業を担当し、後期課程は表象文化論コースで舞台芸術論や文学を、大学院では美学や芸術・文学理論等に関する授業を行なってきた。最近東大はこのままでよいのかという危機感を持っている。特に問題なのは学生や院生の学力の著しい低下である。その学力の低下は「ゆとり教育」のもとで教育を受けてきた学生が入学した二〇〇八年度以前から始まっていた。そのうち学力の低下は後期課程や大学院でも見られるようになった。英語の基礎学力が低下し、外国語学習に対する学生の態度も大きく変化した。一年半ほど前に学生自治会が行なったアンケートで未習外国語(昔の第二外国語)の学習から期待することとしてアンケートに答えた約半数の学生が旅行のためと答えており、この回答が最も多かった。つまりliberal artsとは何かを多くの学生がもはや理解していないのである。また教える側にも問題があり、果たしてこの人に教養教育を担いうるだけの知性と教養があるのか疑わしい教師がちらほら見受けられる。またあるところで、福島で起きた原発事故との関連で科学技術の問題について学問レベルで考え、それを授業に反映させる必要があるという発言をしたことがあったが、その時ある人に「理系の先生にはそうした問題を考える頭がないから、あなたたち文系の人が問題提起しなくてはならない」と言われて唖然とした。もしこれが本当であるならば教師は何を教え、学生は教師から何を学んでいるのであろうか。学生の知的水準が下がり、教師の側にも問題の山積する現実に立ち向かいうる教育を行なう用意がなければ教養教育を期待しても無理である。前期課程に後期課程の教養学科が加わり教養学部の形を取っているのは東京大学だけであり、教養学部はliberal arts教育を重視していると誇らしげに語られることが多いが、実態が伴っておらず、教養教育は単なるお題目になりつつある。後期課程でも最近では卒業論文に相応しいテーマを決められない学生が増えており、卒論が書けず卒業が一年二年と遅れる学生が目立ってきた。駒場の教育が危機に瀕していると言わざるをえない。

駒場では組合運動にも深くかかわり、過半数代表も二年ほど勤めた。特に驚いたのは本部の労務・勤務環境担当の理事の仕事ぶりである、否、より正確に言うならば無仕事ぶりである。彼らには東京大学の研究環境や勤務環境を改善しようという意志がない。今年の四月から五年での雇止めが廃止されることになったが、組合や過半数代表はこの雇止めの廃止を以前から要求していた。交渉や団交の過程で明らかになったのは、理事たちにそもそも現状を把握しようという姿勢がなく、過半数代表や組合が要求を出せば机上の空論を弄ぶばかりであった。過半数代表の選出に法的瑕疵があることが明らかになりやっと重い腰を上げることになったが、歴代の理事は一体何のために東大に籍をおいてきたのであろうか。文科省から天下った人物が理事になるという現象は法人化以降のことであるが、事務局長の職に文部省・文科省からの出向組が就くという慣行は既に一九七〇年代から始まっている。かつての文部省に勤務していた知人がいる。随分以前のことになるが何年かぶりに再会した時に話が文部省のことに及ぶと、文部省は「駄目なとこだ」と言った。理由を尋ねると「十年先のことを考えて政策立案できる人才がいない」とのことであった。「十年先のことを考えて政策立案でき」ない出向や天下り組は大学のために何もすることがないばかりか、むしろ有害なことばかりしているのではあるまいか。

教職員の定員や予算が削られ大学は非常に厳しい状況にある。文科省はそうした苦境にあえぐ大学を助けようとしてのことであろうが、課長補佐クラスが自分自身の業績作りのためにも様々なプロジェクトを考えだし、財務省からお金を引き出してくる。しかしこれは正規の運営交付金でないため組織が複雑になり、会議は増え、教師は益々疲弊している。これには東京大学にも責任がある。文科省が何か大学にかかわる政策を打ち出すと、東京大学は日本を代表し、日本の大学をリードする大学であるという誤った自負のせいか、必ず受け入れてしまう。こうした東大病から早く脱すべきである。そして東京大学は文科省から出向や天下りを受け入れるべきではない。さもなくば東京大学に未来はない。

(超域文化科学/ドイツ語)

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