HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報598号(2018年2月 1日)

教養学部報

第598号 外部公開

送る言葉「相澤先生を送る─ 休火山のような人」

池上俊一

相澤隆先生は私の大学時代の四年先輩で、駒場に奉職したのは私が六年後なので、ずっと後ろ姿を見ながらついていったという印象です。本質的にお人よしなのか、先輩風を吹かすこともなく、何か頼むといつもいやがらずに親切に引き受けてくれました。学生時代には、しばしばドイツ語の中世史の貴重な本(「動物裁判」や「奢侈条例」に関するものなど)を貸してもらいましたし、翻訳の仕事とか、論文を書いてまず読んでもらうのは、信頼できかつ頼みやすいということもあって、いつも相澤さんでした。じつは最近も中高ドイツ語で分からないところを教えてもらいました。

共に西洋中世史を専攻しているということで、東京大学文学部西洋史学科、そして同大学院では、たいていおなじゼミ(樺山紘一、木村尚三郎、城戸毅の諸先生の)に出席していました。一九八〇年代の日本の西洋史学界では「都市史」が流行していて、中世史ゼミにも都市史を専門にする優秀な院生が何人もおり、都市成立論や中心地理論、参審人やミニステリアーレンなどについて、口角泡を飛ばして議論しているのを、私などはポカンと口を開けて見ていただけでした。一見寡黙な相澤さんも、こうした機会にはじつに雄弁になるのが意外でした。院ゼミの後は、皆で喫茶店(本郷の「ルオー」「ボンアート」「麦」など)に寄っておしゃべりするのが慣例になっていて、それはとても楽しい思い出です。

相澤さんは、ヨーロッパ中近世の都市史全般に詳しいのですが、初期の頃は、いずれも『史学雑誌』に掲載された「中世後期マイン・フランケン地方における領邦と都市」「ドイツ中世都市ウォルムスの初期発展と都市領主制」「ドイツ中世都市と家人層─ライン河以東の諸都市の場合」といった代表的論考が表しているように、制度史に傾いていたように思われます。しかしいつの頃からか、制度史から社会史へと関心がシフトしていきました。そこには阿部謹也氏から影響があるのかもしれませんし、ドイツ留学中に日常史グループから影響を受けたのかもしれませんが、「乞食」「酒房」「奢侈条例」「ニクラスハウゼンの笛吹き」といった市民や民衆の日常生活に関するテーマに強い関心を示されるようになったのです。それで、私との距離が縮まりました。
駒場では、相澤さんがドイツ語、私がフランス語をジュニアで教えてきましたが、大学院はおなじ「地域文化研究専攻」所属で、二人で力を合わせて西洋中近世史を専門に選んだ院生を指導するよう努めてきました。まだ国民国家もない中世の時代、どんなテーマを選ぼうと、近現代以上にヨーロッパ的な広い視野が不可欠だからです。幸い何人か、立派な研究者に育っていきました。

相澤さんとの最大の思い出は、二〇〇四年一〇月に、相澤さんが中心になって駒場で開催したヨーロッパ中世史・国際シンポジウム「新しい中世像を求めて─西洋文化における他者の生成」です。ドイツとイタリアからそれぞれ二名ずつ著名な学者を招聘し、日本の研究者も報告者とコメンテーター、司会を務めたこの国際シンポジウムは大成功を収めましたが、その準備から当日の運営、外国人の世話まで、相澤さんは院生の助けを借りながらも、重要な部分はほとんど一人で馬車馬のように働いて切り抜けていったのです。何日も寝ていないのではないかとか、駒場の研究室にずっと泊まっているのではないか、との噂もあったほどです。やるときはやる人だ、という評価がそのとき固まりました。

あと、相澤さんと言えば、大変な音楽好きだということも忘れてはなりません。学生時代から合唱をずっとつづけてこられて、今でも歌っておられるようです。相澤さんは、とっつきにくい、何をお考えなのかよく分からない、という話を耳にすることもありますが、胸に秘めた音楽への愛、やるときはちゃんとやる、という性格を知る私には、熱いマグマを宿している休火山─近年は用いなくなった語ですが─のような人だと感じています。
相澤先生、駒場での長年の教育・研究活動、お疲れさまでした。

(地域文化研究/フランス語・イタリア語)

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