HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報598号(2018年2月 1日)

教養学部報

第598号 外部公開

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田尻芳樹

作家、翻訳者、文学研究者たちのゆるやかな集まり「飯田橋文学会」は、定期的に現代作家のインタヴューを収録し、それをアーカイヴ化してネット上で見られるようにするという企画を二〇一五年から始めている(東大図書館、東大UTCPとの共同企画)。本書はその最初の三つのインタヴューを書籍化したものである。このアーカイヴの目的は、企画の中心人物で本書の編者でもある平野啓一郎氏の「はじめに」によると、作家の言葉を記録して今日のメディア環境に即応した一種の「ミュージアム」を作ること、そして作家たちに特定のトピックではなく自分の経歴の全体についてじっくり語ってもらうことである。こういうインタヴュー自体はこれまでもあったが、ネット上で動画を集積するのは初めての試みであり、また全員に自分で代表作三篇を選んでもらい一部を朗読してもらうというアイデアもユニークである。

本書は高橋源一郎(一九五一年生まれ)、古井由吉(一九三七年生まれ)、瀬戸内寂聴(一九二二年生まれ)という、世代も文学の性質もまったく異なる三人が収録されている(聴き手はそれぞれ、武田将明、阿部公彦、平野啓一郎)。高橋源一郎氏は学生時代に政治で暴れて拘置所で「失語症」に陥ったり、十二年間も肉体労働を続けたりという、時代を先鋭に生きた経験が「全共闘世代」を感じさせるが、興味深かったのは、六〇年代の文学青年は小説よりも(ゴダールなどの)映画、現代詩、ジャズとロックにまず惹かれ、小説も日本のよりはフランスのヌーヴォー・ロマンやカミュが人気だったという回想である。当時は、三島、安部、大江、それから高橋和巳も広く読まれていたはずだが……。

次の古井由吉氏は、文学とは何かという本質的な問いに本書の中で最も深く触れている。たとえば日本語を書くときの音律の重要性を説き、「文学は韻文、つまり詩文なんですよ。根が散文じゃないんです」と述べるあたりは、近代を相対化する歌の伝統を担いながら書いていることを感じさせるし、入院して時間と空間が崩れていく経験から、「われわれが安心して踏んでいる時間と空間は、そんなにたしかなものだろうか」という問いこそ小説の「一番大きなテーマ」だと主張するところも、二〇世紀以降の小説の可能性を鋭く突いている。そもそも氏の最近の小説は、夢と現実、過去と現在、生と死後がないまぜになる不思議な時空間を独特の屈折した日本語で描いているのだが、「いま」と「ここ」がつかみきれないそういう状況でこそ「日常的なことのちょっとした描写がやりがいのあることじゃないか」と言っているのも日常性の描写という二〇世紀以降の文学の重要な問題に深い示唆を与える。

最後の瀬戸内寂聴氏は、マスメディアへの露出度がおそらく三人のうちで最も高く、若い人にもよく知られているだろう。三島や安部よりも三歳年上でなお執筆を続けるこの作家は、日本の文学史そのものを長く生きてきた人であり、このインタヴューでもそういう証言的な話がすこぶる面白い。谷崎潤一郎と佐藤春夫が奪い合った千代という女性は実際に会うとどんな感じの人だったか、『仮面の告白』でデビューして間もない三島にファンレターを送ったらどんな反応があったか、『源氏物語』の現代語訳に燃えていた円地文子が川端康成も『源氏』に手を染めたことを聞いて何と言ったか、など。もちろん小説『美は乱調にあり』、『諧調は偽りなり』の題材にした伊藤野枝と大杉栄に関する関係者の証言も。それにしても自ら『源氏』の現代語訳を完成させる一方で、安保関連法案反対のようなつい最近の現実政治にもコミットするとは何という振幅の大きさだろう。

動画は飯田橋文学会のホームページで見られる(一部無料)。インタヴューは続き、本書の続編も次々と出る。楽しみだが、このようなアーカイヴはすでに歴史と化した遺物を陳列する博物館に似てこないか、それ自体が現代文学の衰退の兆候ではないかという疑念もなくはない。そうでないことを示すには、私たちが、インタヴューだけでなく作品そのものを読んで血肉にしていくしかない。

(言語情報科学/英語)

平野啓一郎
飯田橋文学会  編
高橋源一郎  
古井 由吉  著
瀬戸内寂聴  
「現代作家アーカイヴ 1」
(東京大学出版会、二〇一七年)

提供 東京大学出版会

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