教養学部報
第598号
送る言葉 「俣野先生におくる言葉」
宮本安人
俣野博先生は、一九七七年に京都大学大学院理学研究科修士課程を修了され、七九年に東京大学理学部数学科助手に就任されました。八二年に広島大学に転出された後、八八年に東京大学理学部助教授に就任され、九一年に教授に昇任されました。通算して三十三年と九ヶ月間、東京大学に在職されました。
俣野先生のご専門は、非線形解析と非線形偏微分方程式です。先生が学生でいらした時代は、非線形というと物理や工学で扱われ、伝統的な数学からは異端というイメージがあったそうですが、そのような時代から未開の荒野を切り開いてきた数少ないパイオニアの一人として活躍され、分野を牽引してこられました。
先生の研究は、学生時代から現在に至るまで世界的に注目されてきました。ここでは、全てに触れることはできませんが、初期の頃のエピソードをご紹介したいと思います。先生が修士課程在学中に書かれた論文において、既にいくつもの画期的な定理を証明されました。一つは零点数非増大則と呼ばれる定理です。その定理は、現在、放物形偏微分方程式を研究するための必須な手法となっており、様々な論文でMatano’s principleと書かれています。差分法に関する業績では、山口俣野の定理が有名です。オイラー法と呼ばれるよく知られた数値解法で得られた解が、条件によってはカオス解になるというもので、当時大きなインパクトがありました。さらに、修士論文では放物形偏微分方程式の解の漸近挙動と定常解の安定性について新しい視点から一般論を構築し、その応用として専門家の間で永年懸案であった有名な未解決問題に決定的な解答を与えました。大学院生でありながら、プレプリントを読んだ世界中の研究者から共同研究を申し込まれたそうです。また、数年後にアメリカを訪れたときに、Paul FifeやArthur Winfreeなどの著名な研究者から、key hole manと呼ばれていると本人達から聞いたそうです。というのは、その論文に図が一つ描かれており、それが鍵穴のような形をしていたからです。俣野先生の論文が、いかに広く読まれ影響を与えているかを物語っています。先生の論文を拝読して思うことは、理論の完成度の高さです。「俣野先生が論文を出版するときに、その分野が終わる(完成する)」と、ある先生が仰っていたことが印象的でした。
俣野先生は、様々な国の文化や歴史や料理にも造詣が深く、それはアメリカやフランスなどの大きな国はもとより、旧共産圏にも及びます。チェコとスロバキアが連邦制を解消する二年前の九一年に旧チェコスロバキアを訪れた際に、日本人である俣野先生が当時の同国の世論や置かれている状況をスロバキアの大学院生に詳しく説明したことが、今もスロバキアの研究者の間で語り草になっています。
俣野先生、これまで長い間ありがとうございました。今後も研究集会でお目にかかる機会が多いと思いますが、これまでと変わらず分かりやすくインパクトのあるご講演を、楽しみにしております。
(数理科学研究科)
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