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最終更新日:2022.12.06

教養学部報

第599号 外部公開

<本の棚>河合祥一郎著『シェイクスピア ─人生劇場の達人』

中尾まさみ

本書が出版されたのは二年前の二〇一六年、ウィリアム・シェイクスピアの没後四百年にあたる年だ。すでに新聞等の書評でも繰り返し採り上げられてきた本書をここで改めて紹介するのは、新入生のみなさんにこの一冊をぜひ勧めたいからだ。シェイクスピアの名前はもちろん知っているし、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という『ハムレット』の台詞や『ロミオとジュリエット』のバルコニーの場面などが引用されたりパロディとして使われるのを見聞きしたことはあるが、作品をじっくり読んだり劇場で観たりしたことはない、という人は案外多いのではないだろうか。これは、そういう人たちへの頼りになる道案内の書である。

本書ではまず、シェイクスピアの生涯が紹介されるが、これほど有名な文人でありながら、その生涯は謎に包まれている。著者は残された僅かな史料を仔細に検証し、当時の社会構造や慣習などについての該博な知識と洞察を以て推理してゆく。これに、史実を逸脱しない範囲で想像力豊かに細部を肉付けし、その人生の軌跡を立体的に浮かび上がらせる。その過程でしばしば参照されるのが、作品中の台詞だ。伝記と作品を往復することで、本書はどちらにも光をあて、両者の有機的な関係に思いを致させる。さらに国教会とカトリックの相剋や疫病の猛威など、同時代のイングランド社会を揺るがしたより大きく複雑な問題についての行き届いた解説が、伝記の描写に詳細な背景を書き込む。一般読者向けの読みやすさを備えながら、研究の奥深い世界を垣間見せる本書を、新入生に勧めたい所以である。
そして後半は、いよいよ作品世界に向かう。まずは、「シェイクスピア・マジック」と題して、作品の魅力が解説される。例えば「タイム・スリップ」。楽しい時間が速く過ぎるという感覚は、私たちの多くが知るところだが、シェイクスピアはこれを逆手にとって、観客に昂揚感を与えたい場面では舞台上の時を速く進めるなど、時間を伸縮させるというのだ。場所の設定も同様に驚くほど自由なのだが、こうした「マジック」は、当時の舞台の構造と関係があるという。エリザベス朝の舞台は、観客席(多くは平土間の立ち見だった)との間に緞帳の仕切りや段差がない、「何もない」空間だった。すなわち、演劇世界は台詞の言葉と観客の想像力に委ねられ、時空の制限を自由に超越するのである。これが実は、日本の能や狂言と同じ、という指摘は、シェイクスピアの狂言や文楽への翻案も手がける著者ならではのものだ。

続く第五章、第六章は、それぞれ喜劇と悲劇について具体的な作品に沿って解説する。喜劇において、人は必ずまちがえ、失敗し、馬鹿なことをする。しかし、それこそが人間らしさであるとし、矛盾した存在としての人間を肯定するのがルネサンス時代の人文主義(ユマニスム)だった。「賢い阿呆(ワイズ・フール)」、「攪乱過程」と「大団円」、「主筋と副筋」、「変装」(ここでは歌舞伎が引き合いに出される)など喜劇につきものの仕掛けが解説され、喜劇の「おめでたさ」のダイナミックな本質が解き明かされる。一方、悲劇の本質は、「ヒューブリス」という言葉で表される。これは、本来神の領分である人間の運命を、自分で操ることができると思い込む傲慢さ、と言い換えることができる。ハムレットもオセローも、マクベスもリア王も、みなこの過ちに翻弄されるのだ。ここでも、新プラトン主義に由来するマクロコスモス/ミクロコスモスや「世界劇場(テアトルム・ムンディ)」、メタシアターなどの概念が手際よく説明される。

そしてついに最終章では、演劇が提示する主観的真実(「心の目」で見る世界)の考察を通して、シェイクスピアの作品全体を貫く哲学が解き明かされる。ストア哲学のロゴス観などの背景の解説のみならず、錯視や当時流行した騙し絵「パスペクティブ」などを援用して導かれる力強い結論は、圧巻である。本書を読んでシェイクスピアの文学世界の奥深さを知り、ひとつでも印象に残る台詞と出会ったならば、次はぜひ作品を読み、劇場で舞台を観てほしい。

(地域文化研究/英語)
 

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