HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報603号(2018年10月 1日)

教養学部報

第603号 外部公開

彫琢された文語の木鐸─川野芽生さんの歌壇賞受賞に寄せて

佐藤 光

超域文化科学専攻博士課程(比較文学比較文化)の川野芽生さんが第二十九回歌壇賞を受賞した。歌壇賞は本阿弥書店が主催する公募型新人賞であり、短歌界の登竜門の一つとして知られる。受賞作「Lilith」三十首について、選考委員の一人である吉川宏志氏は「幻想に支配されている男女関係を厳しく見据えている。そして、それに対する呪詛、批判、怒りがとても美しい表現で描かれている」と高く評価した(『歌壇』二〇一八年二月号)。

文語短歌に現代の問題を盛り込むことで、受賞作は古い革袋に新しい輝きを与えた。「harassとは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで」。ハラスメントの語源は、犬を獲物に駆り立てる掛け声に遡る。女神アルテミスの怒りに触れた狩人アクタイオンが、鹿に姿を変えられて、猟犬の群れに追われるギリシア神話の逸話を思い出すならば、鹿に特定の性を割り振るよりも、攻撃が一方的に加えられる時の逃げ場のない苦しみを受けとめたい。「晴らす[ルビはharass] この世のあをぞらは汝が領にてわたしは払ひのけらるる雲」。純粋は排除の上に成り立つ。管理が行き届いた澄み切った空。定型を崩す破調が「あをぞら」を揺さぶる。漢字の「汝」と平仮名の「わたし」との対比が鮮やか。「さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し」。声を上げることを禁じるべっとりとした閉塞感が「佳し」と「塗り籠めに来し」に見える。「魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ」。十八世紀英国の詩人ウィリアム・ブレイクは、異論を唱えた少年が聖職者によって火あぶりにされる光景を詩に歌い、このようなことが今でも行われているのか、と問うた。状況は変わっただろうか。「この世の構造に傷付けられた人間は、様々な理由で沈黙します。[中略]そのように沈黙させられていく声があることを無視して、文学的な問題などない、あってたまるものか、と思います」(川野芽生「受賞者あいさつ」、『歌壇』二〇一八年四月号)。

文学は社会を映す鏡であり、警告を発する預言者である。受賞作は、誰もが真摯に向き合うべき問題を、普遍的な形で表現して提示した。本作が受賞作に選ばれたことを喜ぶと同時に、見識のある選考委員に恵まれたことを感謝したい。

(超域文化科学/英語)

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