HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報603号(2018年10月 1日)

教養学部報

第603号 外部公開

<本の棚>佐藤直樹著『細胞内共生説の謎 隠された歴史とポストゲノム時代における新展開』

増田 建

二〇一四年度の教養学部卒業式で、当時の石井洋二郎学部長が語られた式辞が話題になったことがある。その内容は、一九六四年に東大総長であった大河内一男先生が式辞において語られたとされる伝説的な言葉、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」が、実は自身の言葉ではなくJ・S・ミルの引用であったこと、さらにその言葉もアレンジされたものであったことを示され、原点である一次情報に立ち返って調べることの重要さを卒業生に向かって説かれたものである。自然科学の世界でも、そのように当たり前と考えられている定説があまたある。その中でも「マーギュリスの細胞内共生説」は、中学・高校の教科書にも載っている代表的なものと言えるだろう。細胞内共生説とは、現在の真核細胞内に存在する細胞内小器官であるミトコンドリアと色素体(葉緑体)が、元々は異なる生物(それぞれ好気性細菌およびシアノバクテリア)が細胞内に取り込まれ、共生することで誕生したという考えであり、その説は最初にリン・マーギュリスによって提唱されたと一般には信じられている。本著「細胞内共生説の謎」(佐藤直樹著・東京大学出版会)は、四十年近くに渡ってシアノバクテリア(藍藻)と植物の葉緑体の研究を続けてこられた佐藤直樹先生が、科学史の視点と、自然科学における研究の最前線における理解の両面から、この細胞内共生説について検証された本である。

前半では科学史の視点から、細胞内共生説の原点についての検証が行われ、マーギュリス以前にロシアの研究者メレシコフスキーによって、一九〇五年の論文で既に細胞内共生説が提唱されていたことが示されている。マーギュリスは、それからかなりの年月を経た一九六七年に論文を、一九七〇年に著作「真核細胞の起源」を執筆している。これらでは、真核生物における有糸分裂の進化を中心に持論が展開されており、ミトコンドリアや色素体の細胞内共生については中心的な議論からは余計であったことから、付加的に記載されているに過ぎないことが詳らかにされている。ただ、有糸分裂の進化についての彼女の考えがあまりに荒唐無稽で誰にも理解されなかったことや、メレシコフスキーの論文を直接引用していなかったことから、おまけに過ぎなかった細胞内共生の部分が、彼女の提案としてみなされ独り歩きするようになり、後にマーギュリス自身も自らの主要な業績であると主張するように変容していったことを明らかにしている。

後半では、色素体の細胞内共生説について科学的に検証が行われている。基本的に植物の色素体は、シアノバクテリアが細胞内共生に成功した一つの細胞に由来し、単系統な生物から分岐してきたことが示された後、シアノバクテリアと色素体における脂質合成系やDNA複製系などについての最新の研究結果から、シアノバクテリアから色素体が連続的に進化してきたものでなく、系統的に起源の異なる遺伝子が流用されたり、漸進的に獲得されたりすることにより不連続的に進化してきたことが示されている。即ち、現在ある植物の色素体は、単一のシアノバクテリアの共生だけから成り立ったものではなく、様々な起源の遺伝子がモザイクのように集まって出来上がったのである。

本書は、科学史と生命科学の両面から細胞内共生説の謎に正面から取り組まれた本であり、正に文理融合を旨とする駒場で長年研究を行われてこられた佐藤直樹先生にしか取り纏めることが出来ない内容となっている。今年度で定年退職を迎えられる佐藤先生であるが、その分野を跨いだ教養の幅広さ、語学力、そして知識の奥深さは正に知の巨人と呼べるものであり、もうしばらくでこの駒場を去られてしまうことの喪失感の大きさに愕然とする。あとがきでも述べられているように、佐藤先生が四十年近くに渡り取り組まれてきた現在進行形の研究の集大成と言える内容の濃い良書である。本書において、マーギュリスに対する評価は手厳しいが、細胞内共生説を広く世間に流布した貢献はある程度認めている。佐藤先生の科学に対して厳しく取り組む姿勢が窺い知れ、さらに科学史研究が時に残酷ともいえる事実を明らかにすることを知ることができる。後半の内容は専門的であり、初学者にとっては決して易しいものではない。しかし、本書を通して原点である一次資料は全て引用されている。学生諸君も本書を片手に細胞内共生の謎に挑まれてみては如何だろうか。

(広域システム科学/生物)

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