HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報604号(2018年11月 1日)

教養学部報

第604号 外部公開

日本の過去の優生政策にどう向き合うか

市野川容孝

有斐閣という出版社が隔月で出している『書斎の窓』という小冊子の本年五月号(第六五七号)で、名誉教授の繁桝算男先生と長谷川壽一先生が、進化心理学とは何かについて語られていた(「人生の智慧のための心理学」第六回)。「ダーウィニズムは、最初の導入の段階では、それが、差別、特に人種差別と結びつくということで排撃された」、しかし、進化心理学は「差別と結びつかない人間観に基づくものであると信じたい」と述べる繁桝先生に対して、長谷川先生は「差別主義者のひとりよがりに対し、進化心理学は地についた冷静な人間観を提供できると信じている」と答えている。
進化心理学については、そのとおりなのだと思う。が、ダーウィンの進化論から優生学が(科学的には間違って)生まれたことは事実であり、長谷川先生が言うように「優生学の過ちによる負の遺産」はある。その過ちとは「人種差別」であり「障碍者差別」であり、「ナチスによるホロコーストという二十世紀最悪の惨劇」であるとしつつ、長谷川先生はこう述べている。「なお、我が国における優生主義政策は戦後も長く尾を引き、被害者は今なお償いを受けていない」。
さる七月二十八日、駒場の十八号館ホールで、私の所属する障害学会他の共催で「優生保護法に私たちはどう向き合うのか? 謝罪・補償・調査検証を」という集いがもたれた。そこには、長谷川先生の言う「被害者」の方も数名、参加され、どういう経緯で不妊手術を受けさせられたのか、その後、どう生きてきたのか、今、何を求めているのかを、それぞれ語られた。
優生政策には様々なものがあるけれども、遺伝性とされた疾患や障害を理由とした不妊手術(断種)は、日本の場合、一九四〇年制定の国民優生法で初めて可能となった。それに先立つ一九三三年七月にヒトラー政権は同種の断種法(遺伝病子孫予防法)を制定している。両者のつながりがどれほどかについては、論者によって意見が分かれるが、ナチの断種法が日本にとって一つの参照点だったことは間違いない。
しかし、日本の国民優生法はナチの断種法のようには機能しなかった。ナチの断種法にもとづいて一九四五年までに(強制的に)実施された不妊手術は約三十六万件なのに対し、国民優生法にもとづいて一九四七年までに日本で実施された不妊手術は五三八件。桁が三つも違う。
第七十五回帝国議会で国民優生法が審議されたとき、保守派の議員から「日本は家族制度の国であるが、子種を失うことによって、先祖の祀りは誰がするか、固有の家族制度の精神を破壊するものではないか」、あるいは「我が日本の国は一元的な家族国家である」「すなわち遡れば総て同一血統から出ている」「元が一つになっている網の目のごときもの」の一部を、優生学的理由からとはいえ、断ち切るような「断種」は「我が日本精神に反するものである」「決して是は日本主義ではない」という反対論が出された(衆議院本会議、一九四〇年三月一二日)。こういう反対論もあって、国民優生法は機能しなかった。「国民」の論理が「家」の論理の前で挫折したのである。
優生政策が日本で本格化するのは、家族国家のイデオロギーが敗戦を機に力を失って以降である。一九四八年制定の優生保護法は、刑法の堕胎罪を残したままではあったが、妊娠中絶を合法化した。中絶反対派は優生保護法のその部分をふさごうとし、リプロダクティブ・ライツを求める人たちは反対派のそのような動きに真正面から反対してきた。欧米諸国では一九七〇年代になって広範囲に合法化される妊娠中絶が、日本では一九四八年の優生保護法でいち早く認められたが、優生保護法はその名のとおり、優生政策のための法律でもあり、中絶の権利が長らく強制的な優生政策と表裏一体でしか認められなかった点に日本の特徴がある。
優生保護法は一九九六年に母体保護法に改正され、強制的な不妊手術等の優生政策に関する規定は削除された。だが、優生保護法によって強制的に不妊手術を受けさせられた人たちに対して、社会がきちんとその非を認め、然るべき謝罪や補償をしないかぎり、優生保護法は本当の意味でなくなったとは言えないのではないか─。一九九六年のある論考でそう述べて以来、私はそうした謝罪や補償の実現に向けて、細々とではあるが、活動してきた。しかし、法の不遡及の原則(現在の法規範を過去の出来事に適用してはならない)等の壁は厚く、長谷川先生が言うように「被害者は今なお償いを受けていない」という状況が今も続いている。
本年一月末、旧優生保護法にもとづく強制的な不妊手術の被害者が国家賠償を求めて仙台地裁に提訴し、これに加わる被害者が全国に広がっている。七月二十八日の駒場での集いもそれを受けてのものだったが、今度こそは然るべき結果が出されてほしいと思う。

(国際社会科学/社会・社会思想史)

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