HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報604号(2018年11月 1日)

教養学部報

第604号 外部公開

赤ちゃんの、赤ちゃんによる、赤ちゃんのための絵本

開 一夫

あまたある絵本の中で定番と呼ばれるものは、長い間売れ続け、中には世代を跨ぐロングセラーもある。私自身が、子どもの頃、目にした絵本がいまだに売っていたりもする。小説と比較すると驚異的な息の長さだ。多少の変化はあるもののAmazonの絵本ランキングには、常に十年以上前に出版された絵本がランクインしている。
さて、定番絵本となるには、どうすれば良いのか? 日本国内だけでも、毎年数百冊もの絵本が新たに出版されている現状を考えると、未来の子ども達に見てもらえるような定番絵本に名乗りをあげることの困難さは言うまでもない。定番が長いあいだ居座っているがゆえ、新作絵本がそれなりに売れるだけでも一筋縄ではいかないだろう。
重要なポイントを忘れてはならない。実際に絵本を買うのはお財布をにぎっている「大人」である。絵本作家がどんなに子どもの「気持ち」になって絵本を創ったとしても、実際に購入する大人のお眼鏡にかなわなければ、意味がない。もちろん、少し大きくなって大人と一緒に書店にいけるようになれば、陳列されている絵本に対する子どもの反応を観察しつつ大人が購入することは可能である。しかし、まだ小さな赤ちゃんに選ばせて購入することは難しい。世代を超えて長く売れている絵本の背景には、自分が子ども時代に慣れ親しんだ絵本を自分の子どもにも見てもらいたいという「大人の自己満」があるのかもしれない。定番の絵本の中には、五十歳を過ぎた(絵のセンスほぼゼロの)私がみても、あり得ないぐらい古くさいデザインの絵本が含まれている。祖父母や親戚が古き良き時代を思い出して購入している可能性もある。(念のため言っておくと、古いデザインの絵本がよくないと言っているのでは無い。古めかしい絵本でも子どものこころを掴む何かがあるかも知れない。)
私の専門は発達認知科学である。「こころ」の発達過程を、主に赤ちゃんを対象とした科学的方法で探求する研究分野である。これまで大勢の赤ちゃんに協力してもらい、脳機能の発達的変化や認知的能力やコミュニケーション能力について研究してきた。発達認知科学における研究課題は、絵本作家が赤ちゃん向けの絵本を創作している場面でも同様に起こっているのではなかろうか? 自分が創った絵本の感想を赤ちゃんに訊いてみたり、好きな絵本の作風をことばで尋ねたりすることはできない。いったい赤ちゃんのどんなところに着目して観察したらよいのか? 発達認知科学はこれと同様の問いに答えることを目標としている。
近年の発達認知科学は、乳児の注視行動を計測する研究方法によって発展してきたといっても過言ではない。特に、視覚的刺激や事象に対する注視時間を計測する方法(注視時間法)は、ことばをまだ獲得する前の赤ちゃんでも用いることが可能であり、仰々しい計測装置も必要としないことから、沢山の研究で用いられてきた。注視時間法の一つとして、よく用いられているのが、選好注視法というものである。選好注視法は、二つ以上の刺激を同時に呈示して、どちらの刺激対象を選択的に注視するかが計測される。例えば、音声と口形(口の形)のマッチングに関する研究では、赤ちゃんに「アー」という音を聴かせながら、「あ」の口の形と「い」の口の形を同時に呈示すると「あ」の口の形の方が長く注視される。つまり、赤ちゃんは音声と口の形がマッチしている方を長くみる。
選好注視法を赤ちゃん向け絵本の作製プロセスに活用することはできないものだろうか? 絵本は、絵だけではなく、ことば(音)も重要な構成要素である。音と絵がどれほどマッチしているかは、赤ちゃんがどれほど絵本に注目するのかに大きな影響を与えるはずである。
赤ちゃん向けの絵本の制作プロセスに、発達認知科学の研究を活かすことはできないか? こうした目標を達成するために、出版社の協力を得て、「あかちゃん学絵本プロジェクト」を始めた。私には絵の才能がまったく無いので、プロのデザイナーに依頼してこちらが指定した(意味の無い)音に対する絵を描いてもらい、その中から音にマッチした絵を赤ちゃんに選んでもらうことを実験の目標とした。こうして完成したのが「うるしー」、「もいもい」、「モイモイとキーリー」の三冊の絵本である。
今のところ売れ行きは好調である。しかし、定番となるにはまだまだ先が長い。今回の試みでは、赤ちゃんだけに審査員となってもらったが、お母さんと赤ちゃんが一緒に絵本の作製プロセスに関与してもらえるような方法も今後考えたい。発達認知科学の研究者としての興味は尽きない。

(広域システム科学/情報・図形)

第604号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報