教養学部報
第604号
<時に沿って>数学が出来ない数学者
田中 公
数学が出来ない。多くの人がこの悩みを抱えている。「数学が出来ない」と言った場合、そこには比較対象が存在する。他教科と比較する場合もあるが、悩み事として多いのは、他者との比較であろう。「A君と比べると、私は数学が出来ない」と言った具合である。実際、私自身も大学生の頃から現在に至るまで、同様の悩みを抱えている。
私が大学生の時に、同級生で自分よりも数学が出来る人が少なくとも二人いた。仮にA君・B君としよう。彼らと数学の試験をすれば全く敵わないし、数学書を読むスピードも段違い。私は「A君・B君より数学が出来ない」と感じていた。中でも印象に残っているのは、大学院入試の時の出来事である。
大学四年生の夏。大学院の入学試験の当日の事である。試験問題が配られ、私を含め受験者が一斉に問題を解き始める。試験時間は四時間だったが、解答する問題の数はたったの三問だった。それだけ一問一問が難しかったのである。解き始めてから半分くらい時間が経過した時、私はやっと一問解けた所だった。その時、試験監督の先生が「解答を終えた方は答案を提出して帰って構いません。」と号令をかけた。流石にまだ誰も解き終わってはいないだろうと思っていたが、上述のA君が答案用紙を提出し教室を後にした。それから間もなくしてB君も提出して帰ってしまった。彼らが非常に良く出来る事は知っていたので、既に三問とも解き終えている事は間違いなかった。私は残りの時間を全て使って問題を考えたが、一問半程度しか出来なかった。これまで体験した事のない無力感に苛まれた私は、鴨川の河川敷に行き、日が沈むまで項垂れていた。(自己紹介をしておくと、私は京都大学出身である。鴨川は京都の一級河川である。)
A君やB君より試験の成績は悪かったものの、院試には合格し、京都大学の大学院に進学した。ここで価値観が大きく変わった。「数学の勉強」と「数学の研究」の違いである。「数学の勉強」は既存の理論を学ぶものであるが、「数学の研究」は新しい理論や新しい定理を確立する事を目標とする。大学院に入る前までは数学の勉強しかしてこなかったが、修士課程では数学の研究をする事が求められた。修士課程の期間中に研究した結果を纏めたものを修士論文として提出し、それが卒業に足ると認められれば修士課程を卒業できるのである。私は数学の勉強には向いていないが、数学の研究には少しだけ向いていたようで、楽しみながら数学の研究をする事が出来たし、自分なりに満足の行く結果を出す事が出来た。その後は、京都大学の博士課程に進学し、神戸大学およびインペリアル・カレッジ・ロンドンで研究員を経て、現在に至る。
今でも私は「数学の勉強が出来る」とは思わないが、結局の所、周りの人の事は気にせずに、自分が楽しいと思える事を勉強・研究するのが一番良いのだと思う。
(数理科学研究科)
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