HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報605号(2018年12月 3日)

教養学部報

第605号 外部公開

駒場をあとに「思い出すことなど」

西中村 浩

わたしが駒場に着任したのは一九八九年、ベルリンの壁が崩壊した年だ。その前からソ連ではペレストロイカが進行し、九一年にはソ連自体が解体してしまうという、世界が大きく変わりつつあるときだった。わたしの専門である二十世紀初めのロシア文学や思想に関しても、ペレストロイカに伴うグラスノスチ(情報公開)のおかげで、それまでソ連国内で公刊されることのなかった作品や資料が次々と発表されはじめ、研究も一段とやりやすくなるという変化もあった。
しかし、着任後の二・三年間は、駒場はまだわたしが学生だった頃と同じようなのんびりした雰囲気を残していたように思う。当時のロシア語「教室」(現在の「部会」にあたる)の教員たちの研究室は、現在の図書館のあるあたりに建っていた旧駒場寮南寮(「一研」と呼ばれていた)の一階にあった。ロシア語の先生方の研究室や書庫があったので、ここには本郷の修士課程に入った時からよく通っていたのだが、その雰囲気はその頃からほとんど変わっていなかった。それに当時はまだ駒場の教育と校務運営の単位が教室だったし、後期課程のソ連・東欧分科(まだソ連は存在していた)の運営を担っていたのもロシア語教室だったので、教室の枠を超えて他の教員たちと交流するという機会も、その必要もほとんどなかった。担当していたのも前期課程はロシア語の授業、後期のソ連・東欧分科(当時はまだソ連が崩壊していなかった)と本郷の露文ではロシア文学の授業だったので、教わる側から教える側に立つようになった変化はあったが、基本的にはほとんどロシアにだけ関わっていればよいという環境が変わることはなかった。
それが大きく変わったのは、研究室が一研から他の外国語の教員の研究室のある九号館に移ってからだ。大学院重点化がはじまり、その先頭を切って言語情報科学専攻が新設されたとき、わたしはそこに所属することになったのだ。お互いに気心の知れた六人の小教室からいきなり専門の言語も研究領域も異なる五十人の教員からなる専攻に移ったのだから、まったく別の部署に配置換えされたようなものだった。授業もそれまでと違い、ロシア文学を専門としない学生にも教えなければならなくなった。さらに、しばらくすると専攻主任補佐をやることになり、専攻という大所帯の運営を考えなければならなくなった。はじめはかなりきつかったが、のど元を過ぎたいま思えば、この専攻に所属していたおかげで、専門とする言語も時代も領域も異なるさまざまな先生方と話したり、いっしょに仕事をすることになり、いろいろと大きな刺激を受け、自分のロシア文学や思想の研究をもっと大きな視野で新しく見直す契機になったと思う。
そしてまた、「東アジアリベラルアーツイニシアティブ(EALAI)」でのBESETOHA開催や、「教養教育高度化機構」での活動でも、通常の専攻や部会での研究や教育などの業務ではできないような貴重な体験をすることができ、ロシアや西欧、そして教養教育について新しい視野で考えるきっかけを得ることになった。
BESETOHAとは東大が北京大学、ソウル大学校、そしてベトナム国家大学ハノイ校と毎年四大学持ち回りで開催していた「東アジア四大学フォーラム」のことで、東大では駒場が中心になって運営していたのだが、わたしは二〇〇六年から二〇一一年まで、東大側の運営責任者を務めることになった。言語や文化もほとんど知らない東アジアの大学との交流は、それまで知っていたロシアや欧米との交流とはまったく違った慣習もあり、はじめはいろいろ戸惑うことも多かったが、運営の任をともに担ってくれたEALAIの先生たちとスタッフのおかげで、フォーラムが終了した後も次につながっていくような成果を上げることができたし、わたし自身も中国、韓国、そしてベトナムといった東アジアのいろいろな地域についての理解を深めることができた。
「教養教育高度化機構」との関わりはEALAIが機構の国際化部門に組み入れられてからだ。EALAIそのものはしばらくして機構から離れたのだが、わたし自身ははじめ国際化部門長として、そのあとは体験型リーダー養成部門の部門長や教務委員長として、そしていまは機構長として、その活動にずっと関わることになった。機構の役割は既存の部会や学科の枠を超えて、多様な教養教育を展開することにあるのだが、それぞれの部門で専任や特任の先生方が行っているさまざまな教育の試みを間近に見ることができ、部会や専攻から見るのとは違った視点から教養教育を考えるようになるきっかけになった。また、普段はあまり交流のない理系の先生といっしょに活動することでその教育や研究の活動の一端にも触れることができたのも貴重な経験だった。
こうして書いてくると、わたしが三十年間曲がりなりにも駒場の教員を勤めてこられたのは多くの同僚の先生たち、職員の方々、そして学生たちのおかげだったとつくづく思う。心から感謝している。

(言語情報科学/ロシア語)

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