HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報607号(2019年2月 1日)

教養学部報

第607号 外部公開

数学、現代音楽、それに女性学

中村 周

なんとなく「お約束」ですが、私が駒場に在籍していた年数を数えると、教養学部学生として二年間、教養学部基礎科学科の助手として四年半、同学科の助教授として五年間、そのあと名古屋大学に転出して、教授として数理科学研究科に戻って来てから二十一年半、合計すると三十三年間となります。さらに大学院の三年半の間は、所属は本郷の理学系研究科でしたが、指導教員は駒場に居たので、半分は駒場に所属していました。駒場に所属を置いたまま外国に行っていた時期を引いても、優に三十年以上は駒場に籍を置いていた訳で、私にとって駒場は、一生の半分以上を過ごした場所ということになります。
初めて駒場に来たのは教養学部の学生としてでしたが、もはや四十年近く前のことであり、やはり今とはかなり違う部分があったように思います。当時の学生の目から見ると、駒場の教養学部の先生はとても「のどかな」生活を送っていたように見えました。旧制高校制度が無くなってから、当時で既に三十年以上経っていた訳ですが、旧制高校の雰囲気、特に教養主義を尊重する機運の名残があったのかもしれません。私が助手になってからですが、教養数学の先生方の飲み会で、杉浦光男先生と齋藤正彦先生が、「大江が......、三島が......」と文学談義をされていて、少し驚いたのを懐かしく思い出します。そういう雰囲気の中で、勉強のことであれば、先生方に図々しいお願いをしても良いような気分が学生にはあり、同級生の青木愼也君(現・京都大学基礎物理学研究所)たちと、小出昭一郎先生に、自主セミナーの指導をして欲しいなどというお願いをしたのは、今となっては本当に汗顔の思いです。いまは、駒場の先生方も、教育活動の充実、継続的な研究活動、社会への説明責任、など多くの要求の中で忙しい日々を過ごしており、そのようなのどかな雰囲気は(かなり)薄れているようにも思います。そのような教員への仕事の要請は「正しい」ものであり、必然的でもあるとも思うのですが、その過程で失われたものもあるように感じます。
個人的に、教養学部に所属していてとても楽しかったことに、学生が主題を選ぶ「全学ゼミ」への参加があります。自分自身が学生の時も、いくつかの全学ゼミを履修しましたが、助手になってからも、二回ほど、面白そうな全学ゼミに参加させてもらいました。どちらも学生が講師をお願いして大学の正式科目として認定される、という「自主ゼミ」でした。ひとつは、江原由美子先生(当時・お茶の水女子大学、現・横浜国立大学)が指導をされた女性学のゼミでした。今ではジェンダー・スタディと言うことになると思うのですが、まだ「女性学」という言葉すら耳になじまない時代で、江原先生がいろいろなテキストを提示され、参加者がその紹介をして議論をする、という形態のゼミでした。「女性学」という主題にも関わらず学生はほとんど男性のみ、というのが情けなくはあったのですが、とても和やかで、合宿までありました。そこで、当時大学院生だった瀬地山角さん(現・東京大学総合文化研究科)と知り合って、いろいろと話をさせてもらったのも、本当に貴重な経験でした。もうひとつは、現代音楽を主題とするゼミで、講師としては近藤譲さんをお願いしたものでした。憧れの作曲家の話を親しく聞けるということで、これも助手なのに図々しく参加させてもらったのですが、当時は学生だった伊藤乾さん(作曲家、現・東京大学情報学環)と知り合って、長い時間議論をしたのも懐かしい思い出です(話した内容は、ほとんど覚えていないのですが)。このふたつの思い出は、かなり特殊な出来事だろうとは思うのですが、東京大学教養学部というキャンパスには、数学の助手が女性学や現代音楽のゼミに参加するような、「変な」活動を許容する「おおらかさ」があるのだろうと思います。
私が学生の頃は(今でもそうかもしれませんが)、「教養主義的」、「評論家的」というのは、かなりネガティブな響きを持った言葉でした。仕事というものが、現在の自分を作ってくれた社会に対して何かを返していく、という活動であるとすれば、自分が社会に対して寄与できる専門と関係ない知識を持っているのは、確かにあまり意味のないことかもしれません。しかし、バートランド・ラッセルの、"The more things a man is interested in, the more opportunities of happiness he has, and the less he is at the mercy of fate."という警句が正しいとすれば、広い領域に関心を持つことは生活を豊かにし、ひいては意味のある貢献をすることにも通じるように思います。教養学部というのは、ちょっと常識を外れていても、いろいろな関心を追求することのできる、貴重な場であるように感じます。教養学部に在籍する学生の皆さんには、この貴重な時間を有意義に生かしてほしいと思います。
何はともあれ、三十年以上にわたる駒場での生活を、結局のところ暢気に過ごすことができたのは、事務の皆さん、教員の皆さんが寛容に接して下さったおかげと思います。ありがとうございました。

(数理科学研究科)

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