HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報607号(2019年2月 1日)

教養学部報

第607号 外部公開

送る言葉「拓き貫く記号論」

郷原佳以

私の書斎の机上ラックには、折に触れて立ち返りたい大切な論文を入れているファイルがある。おそらく二十年ほど前からずっとそこに入っているのが、石田英敬先生の一九九三年の論文「マラルメ・メディア・マクルーハン」である。これは、この年の六月に大学院言語情報科学専攻の設立を記念して行われたシンポジウム「文字と共同体」での講演をもとにしたもので、この論文が収録された『現代思想』一九九三年十月号は、同シンポジウムを受けて「文字と共同体」特集となっている。私はこの年の四月に文科三類に入学しているが、当時はシンポジウムの存在にさえ気づいていなかった。後に、後期課程か大学院に進んでから、この豊かな特集の存在に気づいて、遅ればせにコピーしたのだと思う。そしてそのとき、私のなかで、二人の石田英敬がピタリと一致した。十九世紀フランスの象徴派詩人マラルメの研究者と、フランス語三列の気さくな教師であると同時に「記号論」で毎回めくるめく刺激的な講義を展開してくださった先生とが。「メディアはメッセージである」という忘れがたいフレーズとともにマクルーハンの名を知ったのは、紛れもなく石田先生の「記号論」においてだった。二人の石田英敬が一致した、というのは、しかし、正確ではない。その一致こそが石田先生であることに、そのとき気づいたのだ。
「マラルメ・メディア・マクルーハン」、世紀と国境と領域を違えた二つの固有名詞を、媒体を意味する「メディア」の一語でもって繋ぐ表題を、いま、このように書いてみるだけで、この連なりのいかに画期的であるかが実感される。この連なりに、二十年ほど前の私は何と興奮したことだろう。「マクルーハン」という補助線によって、孤高の詩人「マラルメ」を一新する、それが石田先生の「記号論」なのだと。
私の手もとにはまた、一九九四年春学期の総合科目「記号論」の配布プリントと授業ノートも残っている。配布プリントには容赦なく原文が引かれ、ついていくのに精一杯だったが、新規な用語と共に世界が新しく分節し直され、「ほしいものがほしいわ」(西武百貨店)といった馴染みの広告コピーが解きほぐされてゆくのが、毎回楽しくてたまらなかった。書誌一覧は未読のものが大半だったが、それらをどうにかこうにか読んでいくことが、その後の指針となった。
石田先生の「記号論」が、二十五年前も、デジタル・テクノロジーの発展を踏まえた最新のヴァージョンも魅力的であるのは、それがけっして輸入思想の解説ではなく、独自の補助線によって思いもよらない景色を拓いているからである。そのことはおそらく、先生の活動が講義、いや、ご著書の副題を借りれば、「日常生活批判のためのレッスン」を基本としていることと関係している。先生は長年駒場で「記号論」を担当されてきただけでなく、パリの国際哲学コレージュ、放送大学、社会人向け講座、高校生向け講座、また最近では東浩紀主催のゲンロンといった様々な場に積極的に出て行き、現代に生きるあらゆる人びとに向けて「レッスン」し続けている。
石田先生は一九九三年に言語情報科学専攻の設立に尽力されたように、二〇〇〇年には情報学環の設立に尽力され、領域横断的なフィールドで記号論をさらに練り上げられたので、駒場の同僚としてご一緒する機会はあまりなかったが、それでもときに、学生への「レッスン」の現場を垣間見ることができた。そして私も、最新のお仕事を通して「レッスン」を受け続けているようなものだった。今後も様々なフィールドで、ますますご活躍されることを確信し、楽しみにしております。

(言語情報科学/フランス語・イタリア語)

第607号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報