HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報608号(2019年4月 1日)

教養学部報

第608号 外部公開

入試はゴールではない ──英語教育における高大接続をめぐって

中尾まさみ

文部科学省は、二〇二一年度大学入試から、英語科目において「読む」「聞く」「話す」「書く」の四技能を評価するため、現在の「センター試験」の後継としての共通テストの枠組みにおいて民間試験を導入することを発表した。このことは、大学入試センターが一括して作成・実施してきた従来の共通テストのあり方からの大きな方向転換を意味し、関係各方面に議論を呼んでいるが、そこで指摘されてきた問題点は、大きく二つに分けることができる。
一つ目は、公平性・公正性への疑義である。すでに二十三種の民間試験が参加を認定されており、各試験間の点数比較は、CEFR(「外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠」)との対照表によることが決まっているが、目的や形態の異なる複数試験の比較はきわめて難しいし、各試験のレベル指定が試験実施業者の自己申請によることも問題視されている。さらに、地理的条件、経済的条件などですべての受験生に公平な受験機会が保証されないこと、多くの民間試験が問題の公表を行っていないため、大学が試験結果を選抜に使用するまでの間に公正性の検証ができないことなどの問題もある。また、とくに「話す技能」の評価に関わる障碍については、その多様さから対応の難しさが懸念されている。本学では、こうした問題群が解決されていないことを重く見て、二十一年度入試については、民間試験の受験を一律に課すことはしないことをすでに発表している。
さて、二つ目の問題点は、言語やコミュニケーションのありようの根幹に関わっている。大学入学後の英語教育に携わる者の一人として、ここではこちらについて、少し詳しく述べたい。民間試験導入の背景には、①英語の「四技能」のうち日本ではとくに「話す技能」が弱いようだ。②それは大学入試に使わないからではないか。③それなら入試に採り入れれば「話す技能」が身につくはずである、というほとんど魔法のような三段論法がある。民間試験には、それぞれ「話す」力を点数化する方法があり、過去問などを参照してそれを繰り返し練習すれば、ある程度点数を上げることはできる。しかし、それは本当の意味での言語運用能力をつけることとは、根本的に異なっている。
実生活の中のコミュニケーションを思い浮かべれば、それが単なる「技能」に収斂されるにはあまりに複雑な言語活動であることに気づくのは容易だろう。私たちが発する言葉は、それまでに私たちの中に形成された「言語の総体」とでも呼ぶべきものに依拠している。語る内容とそれを表現するのに適した言葉の蓄積がなければ、どれほど流暢に話す「技能」があっても何かを伝えることはできない。さらにコミュニケーションは双方向的に成立するものであるから、相手の発話を理解し、これに反応することで次の発話が形成され、あるいは変化する。そこにもまた内なる「総体」との間の往復運動が存在しているはずだ。
こうしてみると、話す力を独立した一「技能」として計ることには、そもそも無理があることがわかる。面接という極度の緊張を強いる短時間での人工的なやりとりやコンピュータ端末に話しかけるという行為は、決して言語本来のありようを映してはいない。もちろん、限られた時間・空間の中での試験なのだからしかたがない、という言い方もできるかもしれない。しかし、本当に憂うべきは、こうした試験を入試の一部として採用すれば、生徒たちが一斉に端末に話しかける練習に勤しむシュールな光景が日本中の中高の教室で反復されることになりかねない、ということである。大学入試はゴールではない。志望する大学で継続する学びのために必要な基礎ができていることを確認する場である。そして、それに向けての準備は、それ自体意味のある学習であるべきなのだ。
では、大学入学後の英語教育とはどのようなものか。これまで採り上げてきた「話す」ことに焦点を当てて、ここでは、本学教養学部一年生向け科目FLOW(Fluency-Oriented Workshop)について紹介したい。FLOWは、少人数で討議力を養成する英語必修科目で、自己診断による習熟度別クラス編成というユニークな試みを行っている。入試で「話す技能」を点数化されるのとは異なったリラックスした雰囲気の中で、自らに適した学習環境を選ぶのだ。授業の目標は、議論の経験を積むことに留まらず、自らの発話を客観的に分析し、授業外でも英語全般を自律的に学び続ける方法を習得することにある。そうした授業外学習を大学院生TAがサポートする学習支援施設KWS(駒場ライターズ・スタジオ)や、留学生との交流の場も用意されているし、その後、短期・長期留学の道も開かれている。大学生として自らの学びに積極的に関わる姿勢を身につけるのだ。
大学は、新たな知識を得て柔軟に思考し、論理的に結論を導き出す方法を学ぶ、学問の場である。身につけるべき英語も、当然、これに見合うものを目指すことになる。大学で英語の力が伸びる学生は、入学時に話すことが得意な学生とは限らない。しっかり基礎学力を積んで、自分の中に堅固な「言語の総体」を築いてきた学生が、自らの意志で貪欲に能力の向上を追求しようと行動するときにこそ、目を見張るような進歩が実現するのだ。大学入学後まで含めた息の長くバランスのとれた教育の継続が、そうした本当の実りを準備するのではないだろうか。

(地域文化研究/英語)

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