HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報610号(2019年6月 3日)

教養学部報

第610号 外部公開

失われた第二本館を求めて

前島志保

「ある時は二本、ある時は旧二号館、またある時は第二本館......しかしてその実体は⁈」
回答できたあなたは相当の駒場通だ。数か月前の私同様、ほとんどの人は初めて聞く施設名ではないだろうか。
この謎の建物の存在を、駒場博物館の歴史を調べていた折茂克哉先生と津田浩司先生から聞いたのは、大学院入試が一段落した二月半ば過ぎのことだった。『教養学部の三十年』『駒場の50年』の構内図を対照すると、今の二、十二、十三、十四号館のあたりをぐるりと囲む建物だったらしい。しかし、どのような位置付けの施設だったのかは、全くわからない。
早速、調査・「聞き込み」開始。すると、建築史上特に見るべきものはなく、今ではすっかり忘れ去られてしまったこの建物が、実は、戦後新制大学として再出発した駒場を象徴する施設だった、ということがわかった(文中、括弧内の号数は『教養学部報』のもの)。

* * *

第二本館は、一九五一年に教養学科六分科(米英仏独の各文化と社会、国際関係論、科学史及び科学哲学)が、一九五三年に大学院(西洋古典学、比較文学比較文化、国際関係論。五四年に文化人類学と人文地理学が加わる)が、それぞれ設置されるにあたり、「教養学部の中心となるべきもの」として構想された。場所は、旧一高生物教室の焼け跡地帯。空襲でキャンパスが大きな損害を被った様子は、生協食堂側壁のプレート写真に詳しい。第二本館建設は、戦災復興の一環(「緊急所要建物の打開策」)でもあった。
もともとは、大・中教室、図書館・書庫、美術館、講堂、研究室等を備える大建築物となる予定だったが、予算等の関係で、一九五二年度、現在の二号館の位置にその一部がまず竣工。以降、増築を重ね、最終的には、教授会等が開催された会議室(一九六五年秋に新会議室に移動)、教養学科および大学院の研究室・教室・図書室(一九六六年に八号館に移動)、社会科学系の研究室、製図室・準備室、美術博物館陳列室(一九六九年に現在の位置に移動)、前期向けの大教室等が入る複合施設となった(以上、「教養学部建築の構想」七号、「捗とる〔ママ〕第二本館」一七号、「本年度駒場の学園づくり」一三二号、「本年度の駒場の学園づくり」一四二号、「駒場の学園づくり」一一五号、「駒場施設史」一五〇号、「新図書館あれこれ」一六一号、「教養学部創設三十年に当って」二五二号)。
当時の『教養学部報』には、学際性、国際性、多様性(「東大の女子学生の将来のために教養学科が最適当」「紹介 教養学科の前進」二一号)等、新しい大学の理想像がしばしば語られている。第二本館関連記事(多くは初代事務部長・青木庄太郎による)にも、「大教養学部にふさわしい美観を添える」(「教養学部建築の構想」七号)、「駒場の学園づくりの柱」(「本年度駒場の学園づくり」一二三号)等の言葉が躍り、新設教養学部への期待が込められた建物だったことがわかる。戦後新しく建てられたコンクリート製の校舎は、当初、第二本館だけだったこともあり、かなり目立つ建物だったらしい(毛利秀雄「駒場―来し方、そしてこれから」『駒場友の会会報』第11号、川本皓嗣先生談)。
「第二本館の完成は創設以来のわれわれの夢であり理想」(「リアリストの夢」五〇号)とされ、一九六三年にようやく全体が完成した第二本館(通称・二本)だったが、復興期の良質とは言えない資材の使用と劣悪な施工、学生増に伴うやや拙速な増築に加え、学生による乱暴な使用もあり、実際は理想とはかけ離れた状態だったようだ。何しろ、同一館内でも入口を間違えると目当ての部屋に辿り着けない、迷路のような構造だったというから、不便さがしのばれる(廣野喜幸先生・岩月純一先生談)。早くも一九七七、七八年頃には、「側壁のコンクリートが欠け落ち、さびた鉄筋がゆがんで顔を出す状態が目につく」ようになり(「二号館の思い出」三〇〇号)、一九七〇年代末から一九八〇年代初頭にかけて、その著しい劣化が、キャンパス全体の設計不足とともに問題とされ、「駒場スラム」と呼ばれるまでになってしまった(「教養学部創設三十年に当って」二五二号)。これは比喩ではなく、実際に第二本館中庭の荒れ地には、戦災の焼け残りの柱が立っていたという(小出昭一郎「学部長(室)時代の回想」『駒場の50年』、西中村浩先生・廣野喜幸先生談)。
やがて、統一的な構想に基づく駒場全体の校内再編が具体化、一九八〇年代には新しい建築物が次々と建てられ、それまで「第〇本館」と「第〇号館」が混在していた建物の名称も「〇号館」に一元化、現在のキャンパスの原型が出来た。第二本館の取り壊しはその先駆けだったが、しばらくは一部が残存し、使用されていたらしい。一九八五年頃は大教室が前期課程の授業の他、学生自治会の大会にも使われ、その運営をめぐり建物の周りが騒然としたこともあった(徳盛誠先生談)。一九八七年頃には大部分が「廃墟」のようだったものの、同じような使用状況だったそうだ(岩月純一先生談)。昨年度退職された荒井良雄先生は、この頃の旧二号館地下の院生部屋・学生実習室の「コミューン」のような空間で、人文地理学教室の学生達が思い思いに研究を深めていた様子を、「駒場をあとに 旧二号館の地下室」(六〇七号)に記している。
建設当初、新時代の駒場の中心と目されていた第二本館。一九七〇年代末、第二本館をはじめとする、雑然とした建物や庭は批判の対象になったが、そこに駒場の「リベラルな雰囲気」「のびのびとした空気」を見る者もいた(「教養学部創設三十年に当って」二五二号)。末期の第二本館の在り方からは、確かに、自由闊達な気風を感じ取ることができる。翻って現在、その「遺伝子」は駒場のどこに息づいているだろうか。
(本文中お名前を挙げた方々の他に、桜井英治先生、田村隆先生からは、資料のご教示を得た。ご協力くださった皆様に心より感謝申し上げる。)

(超域文化科学/PEAK前期)

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