HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報610号(2019年6月 3日)

教養学部報

第610号 外部公開

<本の棚> 石井洋二郎、藤垣裕子著『続・大人になるためのリベラルアーツ』

廣野喜幸

アッシリア学の泰斗セイス教授(Archibald Henry Sayce 1845-1933)によると、今時の若い者に対する年長者の嘆きは古代エジプト時代からあるそうだ(柳田国男「昔風と当世風」『木綿以前の事』)。だとしたら、詮無きことかもしれないが、それでも言いたくなる気持ちはよく分かる。「今時の院生さんは学振などに通れば恵まれた研究環境にいるのだから、もうちょっと成果をあげてくれないものか。」そこで、レベルアップを図るべく、早くから専門知識を伝授したくなる。しかし、キャパシティには限りがある。専門知識を多く詰め込めば、他は排除され、「専門バカ」になりかねない。専門知と教養のバランスをどこでどうとるか。これは難問である。
大学闘争時、学生は教員を専門バカと突き上げた。(教員は、「君たちはただのバカだ」と言い返したという。)当時の日本の指導層を同様に判断したのは戦勝国アメリカであり、広い視野をもつ人材の養成を日本に強く勧告した。そして、戦後は新制大学の早期に一般教育科目を履修しつつ、その後専門を深めるといった体制が一律に確立されたのである。学問を全般的に見渡した上で、専門知を習得する仕組みによって、専門知と教養のバランスとろうというのである。
一九九二年になると規制緩和の流れとともに、各大学の裁量を大きくする措置(大学設置基準の大綱化)がとられた。そのとき、雪崩を打ったようにほとんどの大学が専門知の比重を増す方向に流れた。八十校強の国立大学で教養部・教養学部を残したのは、埼玉大学・東京医科歯科大学・東京大学のわずか三校にすぎない。だが、教養を蔑ろにすれば、しっぺ返しを食らう。そこで、今多くの大学は教養をどうカリキュラムとして体系化していくかという課題に直面し、悪戦苦闘している。
東京大学でこの課題に精力的・積極的に取り組んだのが、それぞれ当時、副学長・総合文化研究科長、あるいは総長補佐・総合文化研究科副研究科長であった、石井洋二郎・藤垣裕子の両先生である。両氏が中心となって、「後期教養」という魅力的な解が提示された。学問を全般的に見渡した後に専門化していくことは、なるほど重要だ。しかし、長く専門知に浸かっているうちに、最初に得た一般的眺望など、きれいさっぱり抜け落ちてしまう。その専門分野の発想法からしか考えられなくなりがちである。教養は、専門分野に進んだ後こそ重要なのである。暗黙知となり、絶対的な存在となったフレームワークを継続的に自覚し見直すこと、これが後期教養である。
理念のみでは画餅にすぎない。そこで両氏は後期教養を会得できる場も創出した。三〜四年と大学院生が参加する「異分野交流・多分野協力論」なる講義である。その講義録から生まれでたのが、前書『大人になるためのリベラルアーツ』(東京大学出版会、二〇一六)と本書である。講義で、したがって両書で取り上げられるのは、代理母やエンハンスメント、議論による合意は真に可能なのかといった、少なくとも現在はベストな解答が何であるかは分からないが、解答があるとしたら、イエスもしくはノーで答えることができる問題である。両書は旬な話題が豊富に取り上げられ、かつ簡にして要を得た情報が纏められている利点もあるが、重要なのはもちろん後期教養についてである。本書を紐解くと、参加者の一部は後期教養力を確かに身につけ始めていることが分かる。ただ、本書を読んでも後期教養力が直ちに身につくわけではあるまい。そのためには、やはり異分野の人々と実際に議論する場に身を置くことが求められよう。「異分野交流・多分野協力論」に参加するのもよい。が、評者としては、両書を手がかりに、そうした場を自ら創出する学生・院生諸氏が多く現れてくれると嬉しいところだ。
この作業は専門知のみならず、自らを顧みる洞察力をも高めてくれるだろう。古代ギリシャのデルポイ神殿には、「汝、自身を知れ」と刻まれていたという。ソクラテスにとって自己洞察は哲学=愛知の根本、つまり学問の始原であった。その意味では、両書は学問の根源に至る、よき跳躍台になる可能性をも秘めている。両書が学生・院生諸氏によって十二分に活用されることを願ってやまない。

(相関基礎科学/哲学・科学史)

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