HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報610号(2019年6月 3日)

教養学部報

第610号 外部公開

「気候変動の経済学」に関する2018年ノーベル経済学賞の受賞について

成田大樹

気候変動問題は現在の世界が抱える大きな課題の一つであり、学術研究の面からも気候科学をはじめとして特に自然科学分野で多くの研究がなされてきている。気候変動問題は他方でまた例えば温室効果ガス排出の削減費用の評価、気候変動の経済影響の分析、また炭素税などの政策手段の効果の検証など、経済学の研究対象となりうる様々な問題も有しているテーマである。このような経済問題としての気候変動問題を研究する学問分野として、「気候変動の経済学(economics of climate change)」と呼ばれる経済学の一分野が近年発展してきている。この「気候変動の経済学」分野に関係する初の受賞として、米国イェール大学のW.ノードハウス(W. Nordhaus)教授が二〇一八年のノーベル経済学賞を受賞した。ちなみにノーベル賞の正式な受賞理由には言及されていないものの、ノードハウス氏はマクロ経済学分野において気候変動以外のトピックについても数々の重要な業績を上げている経済学者である。
ノードハウス氏の受賞理由となっている貢献は、DICE(Dynamic Integrated Climate-Economy)モデルという世界経済と気候システムの連関を評価する統合評価モデル(integrated assessment model)の開発である(DICEに関連するモデルとして、地域分類をより詳細にしたRICEモデルというモデルも存在する)。DICEモデルは気候変動政策の費用便益分析を行うシミュレーションモデルであり、現在と将来にわたる世界全体での最適な温室効果ガス排出削減量を計算するというのがその基本的な機能である。二酸化炭素などの温室効果ガスの排出は、エネルギー使用などの経済活動の根幹と関わっており、その削減は多大な費用を要する。しかし現時点での排出削減により将来の異常気象リスクが下がるなど、気候変動対策は長期的な世界経済の成長には正の効果を及ぼしうるものと考えられる。そういう意味で排出削減は長期には経済的な便益をもたらしうるものであるが、排出削減の政策による義務付けは様々な経済主体の現在の利害に直接関わるものであり、政策立案においても定量的なエビデンスの積み重ねが求められる。
DICEモデルはマクロ経済学の分析枠組みを用いており、世界の経済規模(世界各国の国内総生産(GDP)の総和)を労働力の量、資本蓄積、及び技術革新の関数とみなすことで経済全体を表現している。モデルは、長期的な世界経済の成長(景気変動はあるものの、世界経済の規模は例えば過去五十年間に平均で年率約三%程度の速度で順調に拡大してきている)が気候変動により将来どの程度減速し、またその減速を軽減するためにどの程度の排出削減を行ったら良いかということを評価する。気候変動過程の表現としては、化石燃料の燃焼などを通じた生産活動による温室効果ガスの排出、排出されたガスがどのように大気や海洋に蓄積し濃度上昇を引き起こすか、温室効果ガスの放射強制力、気候変動の経済影響(農作物収量の減少、海面上昇の社会的コスト、異常気象や熱帯病リスクの増加)に関して、実証データを用いて定量化された関係性を用い、関数をモジュールとして取り込み計算を行なっている。なお、DICEモデルの優れた点の一つはモデルのソースコードを一般公開していることである。実際に一九九〇年台半ばの発表以来、DICEは他の研究者から様々な観点での検証や批判を受けつつ継続して改良されてきており、学術研究の一つのあり方を示すものともなっている。
気候変動の経済学に関するDICEモデルの開発を通じた研究はこのように学術的貢献として非常に優れたものであるが、現状においてはDICEにより計算された定量的な炭素税率などの値をそのまま現実の政策目標として使用できるというわけではなく、実際にはモデルの分析枠組みや評価方法については現在でも多くの批判がある。例えば、DICEモデルの評価では、現時点の政策判断において将来の社会厚生にどのくらいのウェイトをかけて考慮するか(割引率の設定)によって計算結果が大きく変わってしまうが、この割引率の設定については理論的な観点からも専門家間の一致がまだなされていない。また将来の技術革新や気候変動影響に関する不確実性の扱いについても方法論上の問題が残っている。実際DICEモデルにより評価される最適な炭素税率についても、一九九〇年代時点から現在に至るまで幾度も改訂されてきている。そういうわけで定量的な意味での政策への指針ということでの有効性は不十分であるが、気候変動問題に関する一つの見方を提供し、学術的な問題提起を行ったという意味でノードハウス氏の貢献は極めて重要である。

(国際環境学教育機構)

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