HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報610号(2019年6月 3日)

教養学部報

第610号 外部公開

<本の棚>三浦篤著『エドゥアール・マネ ─西洋絵画史の革命』

森元庸介

モネなら《睡蓮》、ドガだと《踊り子》たち、ルノワールといえば《少女》たち...。これはこれで単純化も過ぎようが、ともあれ思い浮かべやすく、いかにも「映える」作品をものした印象派の画家たちと較べるなら、世代的に少し先行するマネの絵は総じて鈍い印象を与える。そっけなく、ややぎこちなく、どこか突き放したかのよう。だが、そんなマネこそが絵画史上もっとも重要な革命のひとつを成し遂げ、その余波は今日にまで及んでいると著者はいう。
「マネと〈現在〉」を挟んで「過去からマネへ」、「マネから未来へ」、それぞれ四章から成る三部構成、また淀みのない明澄な文体。端正な構図と小気味よい筆の運びは、けれど、描き出すべき対象がいかにも捉えにくい陰翳を湛えるからこその逆説的、そして必然的な選択だったろう。実際、ここで、革命は一挙一斉的なわかりやすい断絶、転覆とは別の何かである。
《草上の昼食》の中心構図がラファエロの失われた素描に由来することは夙に知られるが、類例は枚挙に暇がなくて、第一部ではイタリアからスペイン、さらにフランドル・オランダ、そしてまたフランスも─ということはほぼ汎西欧的な絵画伝統にマネが負ったものが次々と例証されてゆく。もちろん単なる模倣や借用が問題なのではない。時代やジャンル、画題を自在にまたぎ、神話的・歴史的な身ぶりを活人画よろしく現代生活の情景に取り込むような転用と変奏こそ画家の真骨頂である。結果、過去と現在は複雑に絡み合い、一面でパリのモデルニテを活写した《テュイルリーの音楽会》が、他面では、当時ベラスケス作と伝わっていた作品を媒介して、オールド・マスターの系脈に連ならんとするマネの自負をさりげなく明かす場ともなる。そのベラスケスの代表作《ラス・メニーナス》に著者が照応させるのは、マネ晩年の大作《フォリー=ベルジェールのバー》。題材も構図も一見して相当に隔たっているけれど、とりわけ視線の交錯、また緊張含みの空間構成に着目するとき、両者はなるほど不思議なまでに重なり合って眼前に映じてくる。絵を大ぶりに捉えてみることの大切さを学ぶ思いだ。
マネが思われる以上に複雑な自己意識を抱える画家だったことは、引き続いて第二部がさまざまに教えるとおりである。いざとなれば個展の開催を辞さず、といって印象派展に加わることはせず、あくまでサロンを主戦場に、逸脱と規範の交錯するぎりぎりのライン上で微細な展示戦略をしかける。貴重な盟友にオマージュを献げながら、その姿を自身の旧作も交えた多彩な複製イメージのあいだに埋め込むような、酷薄でさえあるかもしれない一種のメタ絵画《エミール・ゾラの肖像》を描く。堅固な資料操作と犀利な画面分析から一筋縄でゆかない画家の生態が浮き彫りになる各章は、研究のエッセンスを凝縮して濃厚な味わいである。
印象派・ポスト印象派との距離の測定に始まる第三部は急速にピッチを上げ、批評の次元にも踏み入りながら、マネの「ポテンシャル」がその後の歴史で放射状に現実化するさまを追跡してゆく。マネの徴のもとに語り直された二〇・二一世紀美術史といえばよいか。別格の位置を与えられるのは(やはり転用と変奏の天才である)ピカソだが、評者としてはデュシャンの名が挙げられることに不意をつかれた。冷めたアイロニー、解のない謎、そしてルールそのものの転倒...。芸術の近現代の少なくともひとつの特質である強く主知的な行きかたを思うとき、マネからデュシャンへ至る精神上の系譜がたしかに見えてくる──個人的な関心に引きずられているかもしれないが、本書から受けたこれもまた大きな教えとして書き留めたい。
かつてバタイユはマネに「絵画の沈黙」を見た。もちろん沈黙は意味の不在ではない。マネの絵にはメッセージが満ちている、ただし、ひそやかなしかたで。その黙されたメッセージを聞き届けるにはハイエンドな再生装置がどうしても必要で、本書こそは待望されたその装置である。それが長い研究の蓄積なしになかったことは巻末註を見るまでもなく明らかだが、同時にその成果は思い切りよく圧縮され、コンパクトな、だから広汎な読者へ開かれた一書を生んだ。著者の鷹揚さ─といってみよう─に敬意を表し、「おわりに」で予告された「研究書」をもまた鶴首して待ちたい。

(超域文化科学/フランス語)

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