HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報611号(2019年7月 1日)

教養学部報

第611号 外部公開

<時に沿って> 時は流れず

新井敏康

二〇一九年四月一日付けで数理科学研究科教授に着任しました。三十七年ぶりの駒場です。
以下のある時点から本籍は大学院ですが、その名称からは中身が判読し難いことが現在に近づくほど多いので、名称は学部でいきましょう。
前任地の千葉大学理学部に九年半いました。その前は神戸大学工学部に八年強いました。なんども大学院の改組と研究室の引越しをそこで経験しました。その前には広島に十年弱住みました。その間、広島大学のキャンパスが市内の東千田町から西条に移転しました。広島の前は名古屋大学理学部で助手を四年強務めました。その前に筑波大学で技官を数ヶ月務めていたのは、筑波大学の院で学位を取得した後でした。結局、十年と続いた大学は一つもありません。そしてやっと駒場に辿り着きます。
駒場での始まりは一九七七年四月です。野田秀樹の夢の遊民社の社員(?)が昼休みに生協の前で踊っていたことを思い出します。その頃に駒場キャンパスが封鎖されたことがあります。学生は中から出ることができず、正門と駒場東大前駅との間にいる集団を門の中から眺めていました。「学生は外へ出ないように」と大森学部長のアナウンスが響き渡りました。タイトルは大森荘蔵先生のご著書から拝借したものです。
さて駒場ではどうにか基礎科学科に進学して黒田成俊先生にご指導を仰ぎました。確か野球場のそばの現在、三号館となっている建物に基礎科学科がありました。今でもその建物の中であったいくつかのこと、例えば黒田先生のゼミは印象に残っています。ゼミでは三年後半は多様体論で、四年のときにはヒルベルト空間論でした。
他方で数学基礎論を独学していました。初めは何を読んでいいのか分からず、ブルバキ「数学原論」を初めから順番に読んでいこうと決めて、その始まりである「集合論」を夏休みに本郷の図書館を勉強部屋として使って読みました。「集合論」の日本語訳の第一分冊は集合論ではなく、記号論理学でした。それがある程度は分かった気になったので、ブルバキを読み進めるのは中断して、竹内外史先生や前原昭二先生の本でゲンツェンやゲーデルの結果を学び、そしてクリーニやショーンフィールドの本を読んでいました。クリーニの本は東大出版会からも出ていて生協でも買えたのです。ちょうどその頃、四年の夏休みに入る前だったと思います。数学基礎論を本格的に勉強するために筑波大学大学院を受験しようと考えて、黒田先生の研究室にご相談に上がりました。数学基礎論を勉強したいという意志を伝えると先生は初め少し驚かれたご様子でしたが、すぐに推薦書を書いて下さいました。
こうして無事に学部を卒業することができて、一九八二年三月に駒場を後にしたのでした。

(数理科学研究科)

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