HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報612号(2019年10月 1日)

教養学部報

第612号 外部公開

<時に沿って> 駒場と本郷の間で

高山大毅

年長けてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
着任が決まった時に、ふと思い浮かんだのは上の西行の歌であった。「年長けて」というべきほどの年齢では到底ないが、「命なりけり」という言葉の生硬な響きに、自分のその時の気分にかなうものがあったからであろう。
この文章を書いている五月は後期課程のガイダンスの時期で、私も所属の学際日本文化論コースの説明会に出席している。定番の駒場と本郷の違いに関する質問があると、傍で聴いていても、何だかそわそわしてしまう。実は私は、学部後期・修士課程は駒場に在籍し、博士課程からは本郷に進学したので、駒場の学生としてガイダンスを手伝ったこともあれば、本郷への進学を促すべく、「刺客」として駒場にやってきたこともある。その時の立場にしたがい、所属コース・研究室の宣伝に努めたことに全く悔いはないものの、駒場と本郷の比較については複雑な思いを禁じ得ない。もっとも、この問題についての私の知識はすっかり古くなっているので、進学選択で迷う学生に有益な助言をできる自信は今はない。ただ結局のところ、何を誰に学ぶのかという問題であり、多分に「人」の問題であることはおそらく変わらないと思う。
私の専門は、荻生徂徠を中心とする近世日本の思想史と漢文学である。思想史研究・文学研究の両面から江戸期を研究しているという点で、自分の研究は学際日本文化論コースの理念に対応しているといえるかもしれない。ただ、「学際的」たらんとしてそうなったというよりは、詩と文の両方が収録されていることが多い儒者の文集を通読できるようになりたい─と考えた結果、そうなったというのが実情である。学際日本文化論コースの設立は、二〇一二年。駒場を飛び出した自分の研究が、本郷に移った後に設立されたコースの理念に一致したものになっているというのは、何とも不思議である。
駒場と本郷といっても、どちらも東大であり、大抵の人にはどうでも良い問題であろう。「母校に戻られたんですね」と言われ、「出身は本郷の研究室なので...」と答えると、戸惑いの表情を浮かべられることが多く、今は違和感を覚えながらも「そうですね」と返事をするようにしている。昔、本郷に進学することが決まった時、今は亡き某先生が「高山さんは長く駒場にいましたからね」と言葉をかけてくれたことがあった。その先生の優しい表情とともに忘れられない記憶である。複雑な感情を抱いている「長くいた」場所、転勤族の家庭で育ったため私には良く分からないが、「故郷」というものは、これと似たものなのかもしれない。因縁の「故郷」と和解し、その発展に寄与できる機会を得られたというのは、自分の人生にとって大きな幸福といえるに違いない。
無端更渡桑乾水。却望并州是故郷(端無くも更に渡る桑乾の水、却て并州を望めば是れ故郷)

(地域文化研究/国文・漢文学)

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