HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報612号(2019年10月 1日)

教養学部報

第612号 外部公開

<時に沿って> 変わらない景色と新しい眺め

遠藤智子

言語情報科学専攻の博士課程を私が満期退学したのは二〇〇九年の三月のことでしたので、ちょうど十年の歳月が経過したことになります。教養学部生として所属していたのはさらに昔、前の世紀の終わり頃です。故湯川恭敏先生の「実際の言語はどんな理論が想定するよりも複雑で、人間なんかは到底敵わないずっと賢いものなのだ」という言語そのものへの畏敬のことばに感銘を受けて本郷の言語学科への進学を決めた時、これで駒場とはお別れだと思ったのですが、その後修士課程と博士課程、また留学後の復学等、結局合計六年間も駒場に大学院生として通うことになりました。長くいることが必ずしも思い入れに直結するわけではありませんが、この度駒場に着任してそれほど大きな違和感を持たずに済んでいるのは、やはり通い慣れた場所であるからなのかもしれません。
キャンパスを歩いていると昔と何も変わっていないように思うことがしばしばあります。一号館内の階段を昼過ぎに上がる時や、鬱蒼とした木々の間を歩く時、二十年程度の月日は何も変えやしないのだなと感じます。しかしその一方で、部室として使っていた旧物理倉庫が今は草の生えた空き地であることや、駒場寮のあったあたりが明るい若者の居場所になっていることは、正直なところ私にとってはまだ不思議な光景です。また、十八号館の五階にある研究室の窓の外には、これまで見たことのなかった眺めが広がっています。グラウンドの向こう側には小径があり、よく人が散歩しています。白い花を咲かせる木があります。教室に行くと、学生が授業の開始を待っていて、授業が終わると質問に来ます。このような眺めは、自分がもう学部生でも院生でもなく、教員であることを思い知らせるものです。
同じ景色でも立場によって感じ方が変わるものです。渋谷駅での乗り換えが二十年前や十年前より今は苦痛に感じます。井の頭線から吐き出される人のかたまりは、大げさかもしれませんが、人間性の危機を体現しているように感じられ、その一部分となりながら駒場に通勤して人文学の研究と教育を行うことの意味を自問せずにはいられません。
最近は時々、これまで自分に見えていなかったものや、今も見えていないもの、見えなくなってしまったものについて思いを巡らせます。もしも生まれた家庭や教育方針、性別、専門分野、その他諸々の条件が異なっていたらどのような人間として今ここにいるのか、どんなに想像力を駆使してみても、ほんとうにわかることは不可能なように思われます。ですが、他者の中に自分を見出し、理解への努力を放棄しないこと、分断に抗い相互行為を続けることが、これからの自分たちにとって必要なことだと感じています。そして、そのために自分ができることは何なのかを考えています。

(言語情報科学/英語)

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