HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報612号(2019年10月 1日)

教養学部報

第612号 外部公開

<時に沿って> 流れに身をまかせる

藤川直也

最近家を買った友人が、「近所にある川を見て君の昔話を思い出した」と言っていた。ぼくが育ったのは大阪の高槻という街で、駅から離れればそれなりに豊かな自然が残っていた。ぼくが好きだった遊びの一つが川遊びで、放課後になると友人と連れ立って近所の小さな川に向かい、素手でオイカワをおいまわしたり、石をひっくり返してサワガニを捕まえたり、川面をおよぐヘビから大あわてで逃げたりしていた。いまでは護岸されてしまって、昔のように遊ぶことはもうできない。休みの日の夕方には父が淀川の堤防に連れていってくれた。大きな川のゆっくりとした流れや、向こう岸を走る電車を見るのが好きだった。大学にはいって親元を離れた後も、川のそば、それこそ歩いて数分もかからないところで暮らすことが多かった。大和川や賀茂川、ハドソンリバーに隅田川、どれも素敵な川だ。今住んでいるところは川にあまり近くなく、それが少しさみしい。
振り返ってみると、行き当たりばったりで、川に浮かぶ一枚の落ち葉のように流れに身をまかせての研究生活を送ってきた。哲学の教師になろうと思いたって大学を受験したのだけれど、その時の関心は、カミュやサルトルといったフランスの哲学者たちだった。にも関わらず第二外国語はドイツ語を選択した(たしか愛読していたカフカを原文で読みたかったからだったと思う)。三年生のころには関心はウィトゲンシュタインに移り、そこでたまたまドイツ語が役に立った。大学院に入ると、先生の勧めもあり関心は英語圏の言語哲学に向かった。大学院では、「哲学の勉強もいいけど、論理学と、自然科学を何か一つ勉強しなさい」という先生の指導のもと、論理学と言語学をぽつぽつと勉強しはじめ、ポスドクの頃には形式意味論および語用論という言語学の分野の研究に本腰を入れて取り組むことになった。前任校では言語科学科に所属し、意味論と語用論を主に教えていた。形式意味論は、論理学や集合論といった数理的な道具を使って自然言語の意味を理論化する。現在は、こうした数理的な言語理論が、人間の言語能力の心理学・認知科学・脳神経科学とどのように関係するかを研究テーマの一つとしているが、それも前任校での同僚の先生たちの仕事に刺激をうけてのことだ。言語哲学や言語学を専門とする傍ら、形而上学に関する研究にも取り組んできた。とくに関心をもっているのは、ホームズやゼウスのようにこの世界に存在しないものや、無といった、いくぶんヘンテコなものたちだ。こうした関心は、ニューヨーク留学時の受け入れ先の先生とそこで知り合った友人からの影響がとても大きい。こうして周りの優秀な人たちに大いに影響をうけながら、あるいは流されながら行き当たりばったりに研究していたら、駒場キャンパスに流れつくことになった。
さて、四月に着任して駒場キャンパスをうろうろしていると、西を流れる小川と、東に佇む池を見つけた。どうもこれらは空川という川の源流部で、やがて目黒川へと注ぐらしい。流れついたと思った場所はまた出発点でもあった。これからぼくはどんなところに流されていくのだろうか、とても楽しみだ。

(相関基礎科学/哲学・科学史)

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