HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報614号(2019年12月 2日)

教養学部報

第614号 外部公開

駒場をあとに「心の時間旅行」

信原幸弘

駒場に赴任してから二十五年が経つ。その前も、大学に入学して博士課程を出るまで十年間ずっと駒場だったので、人生の大半は駒場で過ごしたような感じだ。が、こうして改めて駒場での日々を振り返ってみると、ただただ感謝の念が湧き上がるだけで、とくに書くに値するようなエピソードが思い浮かばない。困ったなあ。
仕方ないので、最近あれこれ考えていることを書くことにする。二年ほど前に拙著『情動の哲学入門』を刊行したが、そこでは人生は「自己物語」だと書いた。自分を主人公にして自分でおのれの生を物語りつつ生きていく。人は物語で出来ているのだ。だから、人は小説を読まなければならない。ドラマを見なければならない。そう何度も学生に語ったが、いっこうに奏功しない。スマホ時代には空しい叫びか。スマホを持たぬ私にとって、学生との距離は深まるばかりだ。
自己物語を紡ぎ出す上で重要なのが「心的時間旅行」である。タイムマシンに乗って過去や未来に行くことは不可能だが、心の中でなら可能だ。自分の過ぎ去りし日々を振り返り、自分の今後のあり様を展望する。駒場に赴任してのいきなりの寮問題は辛かったな。対話は本当に難しい。脳科学リテラシーのプロジェクトはとても忙しかった。そのせいで(と私は信じている)、糖尿病になってしまい、いまだに病院通いだ。が、苦しい日々も、思い出の中では、甘美な味がする。「昨日のジャム」と「明日のジャム」はあるが、「今日のジャム」はない。たしかにそのようだ。
将来のことはあまり展望したくない。還暦を過ぎたころは、あともう少しで定年だ、ついに労働の日々から解放される、とウキウキ気分だったが、この頃は遅まきながら、定年後三十年も続きそうな貧しい年金生活のことを思うと、溜息が出る。が、気候変動のせいか、いつ災害に襲われてもおかしくない状況にもなってきた。そこで、そもそもお金のかからないサバイバル的な生活術を身につけておくのがよさそうだ。「年収九十万円で東京ハッピーライフ」は素晴らしい。よし心身を鍛えるぞ。糖尿病にもいいし。ただお酒だけはやめられそうにない。
心的時間旅行は人間にのみ与えられた貴重な能力のようだ。それは過去の自分の出来事を体験的に思い出すエピソード記憶を必要とするが、この記憶能力はどうも人間にしか備わっていないらしい。そのような人間に特有の能力に基づく心的時間旅行はもちろん私たちの生にとって重要だ。なにしろ自己物語に不可欠なのだから。しかし、心的時間旅行を問題視する考えもある。現在から遊離して、ふらふらと過去や未来を彷徨っているのはよろしくないというわけだ。いまここに集中せよ、と「マインドフルネス」は言う。
たしかに心的時間旅行だけではなく、マインドフルネスも重要だと思う。あれこれと考えるのではなく、いま自分がやっていることに没頭する。論文を書いていると、ときにそのような忘我の境地に達することがある。書きたいことをとりあえず書いてみるが、どうもしっくりこない。この表現をいじり、あの言葉を変えてみる。が、うまくいかない。何かいい言い回しはないのか。言葉と格闘するうちに、やっと腑に落ちる表現に出会う。となればよいのだが、たいていは厄介なことに、そうこうするうちに考えも変わってくる。こうしていつ果てることもなく言葉との戯れに没入し、頭が「ウニになる」(将棋界用語)。
楽しいマインドフルネスもある。「孤独のグルメ」だ。気の合う人としんみり語りながら食べるのも楽しいが、本当にじっくりと味わうには何といっても一人だ。いまこの味に集中。「おっと、こう来たか」、「これは手ごわいぞ」と、かの役者の真似をおのずとしてしまうが、それもいまここへの集中を促してくれる。役者は飲まないが、「孤独の一杯」も至福のマインドフルネスだ。
記憶力がとみに衰えてきた。「はじめまして」と挨拶すると、たいてい「前にお会いしましたよ」と言われる。名前どころか、顔も覚えられない。が、それもいいだろう。心的時間旅行は難しくなるが、マインドフルネスは大丈夫だ。「博士の愛した数式」は素晴らしい。
いまも専攻長の職務に追われて、しみじみと定年間近の感傷に浸る暇がないが、それでも駒場にはただひたすら感謝である。人間にとって、いかなる存在も、いかなる事象も、すべて恵みである。森羅万象の恵みに感謝で応答しつつ、駒場の皆様のご恩に心より感謝したい。

(相関基礎科学/哲学・科学史)

第614号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報