HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報614号(2019年12月 2日)

教養学部報

第614号 外部公開

送る言葉「信原幸弘先生を送る」

橋本毅彦

信原先生とは駒場の同僚として二十年以上のおつきあいになる。とはいえ、先生とは専門が異なるため、あまり学問上の交流はせぬまま過ごしてきた。そのため少々気の引ける思いもするが、先生のご退職にあたって、感謝の念を抱きながら、お送りする言葉を綴ることにしたい。
信原先生の専門は心の哲学である。その哲学は、分析哲学をベースとし、自然主義と呼ばれる立場を尊重して諸問題を検討するものである。心の哲学の大問題は心身の関係を問うことだが、その立場では今日の科学研究の成果も積極的に参照しながら研究を進めていく。従ってその立場からの心の哲学の研究では、脳の中で生じることに大きな関心を払うことになるが、それだけでなく身体や周辺環境にも目を向け心の性質や心と身体の関係を問うていく点に、先生の哲学の特色がある。
そのような先生の研究の広がりを垣間見せてくれる本として、ご自身の単著ではないのだが、若手研究者と書かれた一冊を紹介しておこう。それは『ワードマップ 心の哲学』(新曜社、二〇一七年)という本で、心の哲学の重要なキーワードを解説してくれる本である。第一部「心身問題」、第二部「志向性・意識・自我」で基本問題をカバーし、第三部「心の科学と哲学」で認知心理学・コンピュータ科学・精神医学などに関連する哲学的問題が解き明かされる。先生はこの第三部に数編寄稿され、古典的計算主義やコネクショニズムなどの概念について、その内容と問題点、最近の参考文献などを紹介なさっている。
実は、先生はこの共著を出版する前の四年間、大きな科研費の共同研究プロジェクトを進めていらっしゃった。その間、他大学の研究者やご自身の指導学生とともに、心の哲学から倫理や価値の問題の検討に取り組まれていた。前述の小事典はその共同研究の成果の一部を含み、共同研究者の協力でできあがったものである。当時、研究室の一室では時折夜遅くまで学生との勉強会がもたれていたが、部屋の一角には脳の小さな解剖模型が置かれていた。おそらく彼らと模型を眺め脳科学の最新成果を勉強しつつ、皆で哲学的検討を進めていたのではないかと想像する。
先生の語り口には独特のものがある。それは、ほんのりご出身のアクセントがつき、やや訥々とした語り方である。その一方で細部に配慮し、論の運びにも隙がない。そのため卒論や修論の発表会では誰もが傾聴し、歓迎会の挨拶では徒然なる話に続く一言で確実に皆の笑いを取る。教員の会議での司会裁きも定評があり、そのせいか退職直前の年も学内業務で忙しく過ごされることになった。部会の同僚からの信頼も厚く、恐縮ながら退職後も非常勤をお願いすることになっている。
先生の現在の研究テーマは情動(感情)の哲学である。すでにそのテーマで単著をお出しになっているが、広大なテーマであろう、しばらくその研究が続くのではないかと推察する。今後も、お身体を大切になさりつつ、研究を一層進められ、時に我々教員と学生たちに研究成果の一端を披露して頂くことを願っている。

(相関基礎科学/哲学・科学史)

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