HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報615号(2020年1月 7日)

教養学部報

第615号 外部公開

駒場をあとに「なんで、私が東大に」

生越直樹

「なんで、私が東大に」という塾の広告がある。入試の季節になると目に付くその広告を見ると、「そうだよな、なんで私が東大にいるんだろうな」と思ってしまう。
私は学部・修士課程は旧大阪外国語大学、博士課程は大阪大学で東大とは何の縁もない。私には修士課程まで指導してくださった先生と博士課程で指導してくださった先生の二名の指導教員がいる。その二人の先生が会ったとき、私が東大に移ったことが話題になったらしい。一方の先生が、私が東大に移ったことに驚いたと言ったところ、もう一方の先生が「時代ですよ、時代が東大に行かせたんですよ」と言ったとか。直接聞いたわけではないので、本当にそういう会話があったのかは定かではないが、確かに、私が東大にやって来たのは時代の流れと言うしかないだろう。
私の専門分野は韓国朝鮮語学で、韓国朝鮮語と日本語の比較を通して両言語の特徴を明らかにするという日韓対照研究と、在日コリアンの言語生活を調査する社会言語学的な研究を行ってきた。博士課程を終えても韓国朝鮮語学で就職できる見込みはなく、韓国で日本語を教える仕事をしたあと、運良く横浜国立大学で日本語教育を教える仕事に就いた。その後、国立国語研究所の日本語教育センターに移った。当時は世界で日本語を学習する人が増え、日本語教育に注目が集まってきており、日本語教師の養成や日本語教育の研究が急務だったのである。一九九十年代になるとソウルオリンピック(一九八八年)の影響などで韓国への関心が高まり、韓国朝鮮語学習者も増えてきた。東大でも一九九六年から朝鮮語(当時)が基礎科目の外国語となった。そういう動きの中で一九九七年、私は駒場にやって来た。
それまで五年ごとに職場を変わっていたので、またどこかに行くかもしれないと思っていたが、結局駒場で二十数年間過ごすことになった。けれども、そんなに長くいたかなあと思う。実感としては七、八年ぐらいの感じで、今になってみれば、あっという間に過ぎた歳月だった。
あっという間に過ぎたのは、それだけ忙しかったからだろう。研究面では、いろいろなプロジェクトに参加させてもらった。「東アジア諸語のカテゴリー化と文法化に関する対照研究」、「心とことば─進化認知科学的展開」、「移民コミュニティの言語の社会言語学的研究」、いずれも東大の教員からの誘いで、駒場に来なければ、それらのプロジェクトに参加することはなかっただろうし、いろいろな研究者に出会うこともなかっただろう。私の研究者生活はそれらのプロジェクトによるところが大きく、プロジェクト仲間の研究から得られた示唆は数知れない。
忙しかったのは研究のためだけではない。東大出身でもない私が、総長補佐や専攻長、副研究科長(二回も)までやらされた(やらせていただいた)ことも一因だろう。合わせて六年間、二十数年間のうちのわずか六年間だけだが、私の駒場生活の記憶の大きな部分を占める。副研究科長のときは、毎日アドミニ棟に通い、夏休みも一週間というサラリーマン的な生活で、こんなことをしたくて研究者になった訳ではない、とぼやいていた。毎日大学に来なければならないとぼやいたときは、理系の先生方から顰蹙も買ったが(理系の先生たちは毎日大学に来るのが普通。文系は......でも文系は装置がなくても研究できるので)。ぼやきながらも、特に副研究科長の時は、大学という組織はこういうふうに動いているのか、と今まで知らなかった世界を知ることができて面白くもあった。
もちろん面白いことばかりではない。最初の副研究科長の時に起こった学生死亡事故、サークル活動に参加していた学生が飲酒で死亡するという事故の処理は、つらい経験だった。酒は人を楽しませる、しかし過度な飲酒は命に関わる。あのような関係した者誰もが傷つく、救いがない出来事は、二度と起こしてはならない。
もう一つ、組織の中心に近いところにいると、権力というものを実感することもある。自分が言ったことが実現していくという心地よさ、これは確かに人を狂わせるかもしれない。一方で、自分の判断が多くの人に影響を与えるという怖さ、かなりの精神的なストレスになるだろう。そういうものを身近で感じられたことは貴重な体験だった。
最後に、教員の皆さん、事務職員の皆さんに感謝申し上げる。私が何とか駒場で過ごして来られたのは、皆さんのおかげである。特に、韓国朝鮮語部会の同僚には感謝したい。私が役職をしていた間、大きな負担を掛けた。三名しかいない部会で一人が使えなくなると、あとの二人の負担が重くなる。サバティカルも取りにくくなる。どういうわけか、韓国朝鮮語部会はそういう災難?をよく被るようで、昨年、また同僚が副研究科長として使われた(になった)。駒場の皆さん、少人数部会にご配慮を。

(言語情報科学/韓国朝鮮語)

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