HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報615号(2020年1月 7日)

教養学部報

第615号 外部公開

駒場をあとに「台風の駒場薪能」

松岡心平

私が駒場に着任したのは一九九〇年だが、その十年ほど前から、「橋の会」という能の研究・上演団体の運営委員をやっており、この会は二十四年間続いたので、駒場に来ても十四年ほどは橋の会の運営に携わっていたことになる。この会の解散後も、観世宗家の事業や上演にかかわってきたから、私はずっと、能の現場とかかわりながら、駒場で能の授業をしてきたことになる。
着任時、後期課程・大学院は、表象文化論コースであった。まだできたてのコースで、しかも後に"神々の時代"といわれるほど個性的で実力派の先生達が多く、活気にあふれており、まだ若かった私にとって、学生の論文指導・審査あるいは面接試験の場面などでは、こちらの方が多くを学んだような気がしている。もちろん緊張の連続ではあったが、とにかく楽しく、学問の歓びというものを味わえたのは、今から思えば至福の体験であった。
とにかくに駒場は楽しく、恩恵ばかり受けていたので私にしては殊勝にも何か恩返しをしなければ、と考えて、実行に移したのが二〇〇九年の薪能の開催であった。
その当時、科研費の補助金を受けて(私が研究代表者であった)、観世宗家の文書が移管された観世文庫の総合調査が始まっており、各資料の写真撮影が終了し、それぞれに簡単な解題がついた段階で、これをできうる限りウェブ上に公開する、という観世清和宗家の決断があった。「秘すれば花」と言った世阿弥の直系の子孫の「公開」の英断である。これを記念して、観世文庫の文書の展覧会を駒場博物館で行い、そのオープニング・イベントとして東大駒場薪能の開催が決まったのである。その年はちょうど、東京大学教養学部開学の六十周年にあたっており、六十周年記念イベントということになった。
展覧会は、「観世家のアーカイヴー世阿弥直筆本と能楽テクストの世界」と題して行われ、観世文庫の主要な所蔵品のほか、エクストラとして観世家が代々守り伝えてきた世阿弥直筆本七点が一挙に公開された。観世家の世阿弥本が一挙に展示されたのは、今だにこの機会だけである。
薪能の舞台は、図書館とコミュニケーション・プラザ(生協などが入る建物)の間の芝生上に設けられた。生協の書店前の二本の大木の間に楽屋を設け、そこからほぼ横に橋掛(はしがか)りをこしらえたので、その先の主舞台は、広場中央部でも図書館寄りにしつらえられた。主舞台の正面が、生協の学食に向かい合うような形である。
十月九日の演目は、野村萬斎氏主演の狂言「萩大名(はぎだいみょう)」と、観世清和氏主演の能「紅葉狩(もみじがり)」であった。
じつは、一週間前くらいの段階では、薪能の公演をあきらめかけていた。十月九日に台風が直撃するような予報だったからである。三、四日前になって台風の通過が一日早まるという情報が入り、ほっとしたことを覚えている。しかし、当日の夜は、なお台風の吹き返しの風が強く、おまけに少し寒かった。
午後六時からの学部長の挨拶と私の少々の解説のあと、薪の火入れが行われ、狂言が演じられている時分はまだ風はそれほど強くなかったが、能「紅葉狩」になって、風が強まってきた。
「紅葉狩」は、狩りに出た平維茂(たいらのこれもち)という武将が、山中で酒宴を催す女たちのグループに引き込まれ、後に女たちが鬼となって維茂を襲うというスペクタクル能である。この日は「鬼揃(おにぞろえ)」という特別演出だったのでシテ(主人公)を含めると鬼女が全部で六人も出た。
この鬼女六人が、強い風のなか、平維茂を襲い、装束をひるがえしながら格闘するシーンには慄然とさせられた。
野外の能では、ときどき(というより多く)その時の天候・気候とマッチングして演劇的効果がすごく高まることがあるが、十月九日の「紅葉狩」ではまさに、台風の吹き返しの風との間にそれがおこり、悽愴な鬼能となった。
「紅葉狩」には、一疊台の上に、三方を幕でおおわれた人一人が入るくらいの作り物が出る。風が強いときには、作り物が吹き飛ばされないように後見(こうけん)という役の人たちが後ろで必死におさえつけていたらしい。
ハプニングもあるにはあったが、ともあれ千人近くの人たちが来場し、駒場の一角に一夜、祝祭空間が現出したことは、私にとってとてもうれしいことであった。
というのが、私のささやかな駒場への恩返し話なのだが、いい加減な私を生きのびさせてくれた愛すべき駒場、また駒場の皆様にあらためて感謝申し上げたいと思う。
とくに十四号館六階の国文・漢文学教室の同僚・スタッフの方々へは、三十年間、嫌な思いをすることなく過ごせたという幸せをかみしめながら、満腔の謝意を捧げたいと思う。

(超域文化科学/国文・漢文学)

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