HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報615号(2020年1月 7日)

教養学部報

第615号 外部公開

<本の棚> 藤垣裕子・柳川範之 著 『東大教授が考えるあたらしい教養』

鈴木貴之

教養を身につけることはなぜ重要なのか、現代の社会においても教養はなお重要なのか、そもそも教養とは何なのか。教養学部の構成員にとって、これらはみずからの存在意義にも関わる重要な問いである。本書は、東京大学の教育実践をふまえて教養像をアップデートし、これらの問いに答えようという試みである。
本書の基本的な主張は、「教養=知識量」という伝統的な見方は現代ではもはや通用せず、これに代わる新たな見方が必要だということである。第一章ではまず、その手がかりとして、リベラル・アーツとしての教養、ビルドゥングとしての教養、ジェネラル・エデュケーションとしての教養という三つの教養観が紹介される。第一章の後半では、これらをふまえて、新たな教養観が提示される。それは、「知識や情報に接したときにそれを丸のみするのではなく、疑問を持って自分の頭で考える習慣を持つ」(32頁)こと、「異なる考えや意見を持つ人同士が建設的に議論し、思考を発展させていく」(33頁)こと、「正解のない問いについて考え、「ただ一つの正解」探しをするのではなく、他者と知恵を集結しながらよりよい解、つまり思考の枠組を駆使した新たな物差しを模索し続ける」(56頁)ことなどからなる能力である。
この新たな教養観をふまえて、第二章では、アクティブラーニングや異分野交流・多分野協力の試みなど、駒場キャンパスにおける教養教育の具体的な内容が紹介される。続く第三章では、ビジネスにおける教養の重要性が説かれる。そこでとくに強調されるのは、異分野に視線を向ける力や異分野とコミュニケーションする力である。最後の第四章では、教養を身につける習慣として、情報の選別、しゃべり方、知識の整理、建設的な議論、本の読み方、視点の切り替え方が論じられる。
知識偏重型の教育はこれまでも批判の対象となってきた。また、本書における教養は、どのような年齢・職業の人にとっても有用なものだろう。したがって、本書の基本的な主張には多くの人が賛同するはずである。この点をふまえたうえで、三つの点についてコメントしたい。
第一に、本書を読んでその内容を実践に移せる人は、すでにある程度教養を身につけている人だろう。そうでない人は、何をすべきかについて、より具体的な手引きを必要とするかもしれない。しかし、それを示すことは、それほど容易ではないかもしれない。(本書における教養の多くは、アカデミック・スキルの一部と言ってよいものである。しかし、大学教員にとっても、それらは、いつのまにか、なんとなく身についたとしか言いようのない能力であるように思われる。)第三章で紹介されているロールプレイのような具体的な訓練法が多く紹介されていれば、読者の助けとなったかもしれない。
第二に、「正解のない問い」を強調することには危険性があるかもしれない。われわれが現実社会で直面する問題は、高齢化にせよ地球温暖化にせよ、簡単に解決策を見つけることができる問題ではない。関係者全員を満足させる解決策を見出すことは、不可能かもしれない。ここで、これらが「正解のない問い」であることや、異なる意見に耳を傾けることの重要性が強調されることで、読者は、どのような立場にも優劣はないという極端な相対主義が正しいのだと考えてしまうかもしれない。もちろん実際には、本書は上述のように「よりよい解」の探求を重視しており、極端な相対主義を支持しているわけではない。しかし、不注意な読者はそのような誤解をしてしまうかもしれない。
第三に、本書が定義する教養は、広い意味での知性そのものにほかならないように思われる。そうだとすれば、本書の主張は、「教養はもはや重要ではない、重要なのはそれとは別の知的能力だ」という形で述べた方が明確になるかもしれない。これは言葉遣いの問題にすぎないように思われる。しかし、「教養学部」を名乗るわれわれにとっては、そう言って済ますことのできない問題のようにも思われる。本書における教養を「教養」と呼ぶことには、やはり大きな意味があるのだろうか。

(相関基礎科学/哲学・科学史)

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