HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報615号(2020年1月 7日)

教養学部報

第615号 外部公開

駒場をあとに「変化したことと変わらなかったこと」

丸山真人

私の研究室は二号館五階の東端で南に面している。一九九二年着任当時には研究室からしばしば富士山が見えた。また、東のバルコニーからは一号館の時計台がよく見えた。夕方には向かいの旧学生会館洋館から、社交ダンスサークルのダンス音楽が聞こえてきたものだ。あれから四半世紀を超える年月がたち、建物の周囲の欅の木が伸びて、いつしか富士山も時計台も見えなくなった。また洋館は改修されて食堂になっている。
物理的環境だけでなく制度的環境も大きく変化した。変化の量と速度はあまりに大きく、精神的にも体力的にも何とかそれについていくのが精一杯で、そのつど一体自分は何をしているのか、どこに向かっているのか振り返る余裕すらなく、ただひたすら漂流していたというのが実情だ。
私の恩師である玉野井芳郎先生はよく、「学問は教科書になったらつまらなくなる」とおっしゃっていた。それを真に受けて、私は授業でも演習でもなるべく教科書からは遠いところで問いを立て学生に接するようにしてきた。このような私にとって駒場の教育研究環境は魅力的だった。かつての近代経済学もマルクス経済学も、市場経済を分析対象としている点では狭義の経済学に属していたが、私は非市場経済を含む広義の経済学に関心があった。相関社会科学はそうした研究を展開するのにふさわしい分野であった。私は、自分の居場所を与えられたと思った。
ところが、現実には私の研究教育活動は、制度との摺合せによって規定されていた。着任三年目の一九九四年度から、同僚四人とともに相関社会科学の目玉とされた新規科目の「地域社会論演習」を担当することとなり、毎年ジュニアから大学院までの学生院生を引率して地域調査を行い、調査報告書を作成する実務に関わった。青森県佐井村から始めて、熊本県小国町、長野県栄村、東京都目黒区、新潟県大和町(現南魚沼市)と各地でまちづくり地域づくりに関する聞き取り調査を行った。一九九八年度と九九年度には、阪神淡路大震災の被災地でボランティア活動をした方々の聞き取り調査を行った(この時は私自身は東京での聞き取りに参加したのみだった)。授業の一環としてのこの実習は、教員のボランティア精神に負うところが多く、結構時間も体力も費やした。さすがに八年続けるとくたびれてくる。九年目には私は若い同僚に交代をお願いし、それまで細々と続けてきた地域通貨の研究に専念しようと思った。
しかし、一息ついたのもつかの間で、二〇〇三年夏には専攻長命令で大学院「人間の安全保障」プログラム(HSP)の設立準備委員に就任した。二〇〇四年度からは同運営委員として、HSPの教育に深くコミットすることになった。自分の研究とはだんだん離れていく気がして、何となく居心地が悪かった。しかも、二〇〇七年度には専攻長に選ばれてますます忙しくなった。さらに、二〇〇九年度からは、山影進先生がプログラム運営委員長から研究科長に移ることになり、山影先生の指名により運営委員長を引き継いだ。
だが、二〇一一年三月十一日を境に私の心境は大きく変化した。人間の安全保障は諸外国の紛争地域だけではなく、「まさに今ここにおいて求められている」と思うと同時に、自分の研究にとって非常に身近なものに思えてきた。人間の安全保障は、人間の生命、生活、尊厳への脅威を取り除くことであるとするなら、まさに私が取り組んでいる広義の経済学こそは人間の生命、生活、尊厳の基本原理を示すものだし、またそうあるべきだ、と思うようになった。当時同僚だった東大作先生とさっそく「震災・原発と人間の安全保障プロジェクト」を立ち上げ、公開セミナー、授業の一環としての宮城県南三陸町・登米市の聞き取り調査実習を開始した。
二〇一五年一月私は脳卒中で倒れた。学期途中であったが、同僚の先生方や事務職員そして教え子の支援により、授業や学内の仕事には大きな穴を開けることなく済ますことができた。リハビリを続けた結果、二〇一六年度から教壇に復帰した。ただし、地域調査だけは行けなくなったので、その分だけ本を読む時間が増えた。経済学の古典を読み直すことも多くなった。従来の経済学史は、市場原理をどれだけ深く体系的に説明しているかによって、諸学説の完成度を評価する傾向があった。しかし、その評価過程で削ぎ落とされたもののうちに、広義の経済学につながるものが多々含まれていることに気づき、学生諸君の迷惑も顧みないで、講義の中で紹介するようになった。
ところで、この四半世紀で変わらないものが一つある。教授会の行なわれる一〇二号館だ。三階の会議室には階段を使って往復するしかない。さすがに、私が倒れてから階段に手すりを付けてもらったが、毎回教授会の時には苦労して上り下りしている。今後、車イスが必要な教員が着任することもあるだろう。大学当局には一〇二号館にエレベータを早急に設置することをお願いして、お別れの言葉としたい。

(国際社会科学/経済・統計)

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