HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報616号(2020年2月 3日)

教養学部報

第616号 外部公開

駒場をあとに「皆さま、さようなら」

増田 茂

私が駒場に赴任したのは一九八四年四月。以来三十六年もの長きにわたって、多くの教職員の方々や学生の皆さんには大変お世話になりました。深く感謝いたします。「挨拶は短く」を人生訓のひとつにしている私にとっては、以上で本稿は完結していますが、もう少しだけ書かせて頂くことにします。
薄暗い廊下の両側にはロッカーや実験用冷蔵庫などがびっしりと置かれ人がすれ違うのも苦労する狭隘な通路を抜けていくと、助手(現在の助教)として所属することになった原田義也先生の研究室に辿り着く。駒場Ⅰキャンパス三号館三階、そこでは物理・化学・生物の研究室が脈絡なく隣接し、狭い空間ほど激しく動くことを余儀なくされるという量子論の原理さながらに、住人たちが忙しなく行き来していた。原田研では、何台もの真空ポンプによって床が小刻みに揺れ、ときどき発生する地震と相まって、関西育ちの私にとっては何とも落ち着かない。このような劣悪ともいうべき環境にもかかわらず、大隅良典先生(二〇一六年ノーベル生理学・医学賞受賞)をはじめとする世界的研究や教科書の名著が数多く生み出されていた。そんな駒場で三十余年も過ごすことができたのは本当に幸せだったと思う。
原田先生には研究はもちろんのこと、酒の嗜み方に至るまで多く薫陶を賜った。冒頭の「挨拶は短く」もそのひとつ。原田グループの大野公一先生にも多くのことを教わった。今でも鮮明に記憶しているのが「郷に入っては郷に従え」というもの。もちろん「花の東京に来たなら云々」という生活習慣に関することではなく、「一流の研究室には、一本筋の通った流儀がある。君も原田研の一員になったのだから、原田研の流儀に従え」というもの。「型に入って型を出よ」という王道に通じるものであり、東大の先生のちょっとした言い回しには深い深い含蓄があると思った。
駒場に赴任後、ヘリウムの励起原子を物質に衝突させ、物質から放出された電子の運動エネルギーを測定するという実験に携わった。物質の電子状態に関するユニークな知見が得られる。対象は気体分子、半導体・金属表面、有機薄膜などであり、分野で言えば、物理化学、表面・界面科学、有機物性に属する。電子を計測する分析器や励起原子源の開発・製作にはじまって、スペクトルの測定、第一原理計算などによる解析へと続く。研究対象をうまく選ぶと、この手法は絶大な威力を発揮する。実験結果に夜も眠れぬ高揚感を覚えたのも一度や二度ではなく、すっかり魅了されて今に至っている。これまで研究室を支えてくれたスタッフ、院生の面々と過ごした日々はかけがえのないものだ。
一九九六年、市村宗武学部長を補佐するという重責を担うことになった。駒場寮の廃寮が本格的に動き出し、学内は騒然としていた。当時、学部長室があった一〇一号館は抗議する学生で包囲され、駒場寮では学生と教員が対峙することもしばしば起きた。学部長室、特別委員会の先生方が中心になって連日、対応に追われた。私の役割は、小林寛道先生らとともに駒場寮の状況を調査することなどであった。その後、廃寮問題は二〇〇一年の明け渡し、強制執行まで続くが、粘り強く円満な解決に至る苦悩の日々は駒場の誇りであると思う。三十代、大学とは教育・研究の場であると思っていた私にとって、この廃寮問題は大学とは何かを問う契機になった。
さまざまな委員会、会議、プロジェクトで文系の先生方と一緒になった。学問の性質の違いであろうか、文系の先生方の過激な発言に息をのむ一方で、予算に対する感覚の違いに膝の力が抜けることもあった。駒場ならではの新鮮な出会いであった。教務委員会では中澤恒子先生たちとさまざまなルール作りに当たった。研究や外部資金獲得に関する教員組織や委員会がないのは駒場くらいだということも仏語の先生から伺った。この助言をもとに、専攻には委員会を、研究科には戦略室を立ち上げたが、この種の試みが今後の駒場の地に豊穣をもたらすことを祈るばかりだ。委員会や会議が増えると、研究・教育の時間が減少する。そのため、委員会や会議の時間は短い方がよいと思うのだが、短時間で終ってしまうと議論が尽くされていないと問題視される先生もいて、やはり駒場は一筋縄ではいかぬ。
駒場の教員の特権は、毎年三千名もの新入生に向き合えることだろう。これは大学教員の冥利であり、歳とともに大きな喜びとなる。ところがそんな想いとは裏腹に、化学部会の統計によれば、授業に対する学生の満足度は教員の年齢とともに低下する。経験を重ねていくと、講義内容はより精選され、教員の話し方もより洗練されて、学生の満足度は向上するはずなのに、なぜかそうはならない。私もこの経験則から免れそうにないが、現役の先生方には、この経験則には汎用性がないこと証明してほしいと切に願う。
研究室の窓から眺めると、銀杏の巨木が黄色く色づいてきた。もうすぐ駒場祭が始まる。

(相関基礎科学/化学)

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