HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報617号(2020年4月 1日)

教養学部報

第617号 外部公開

反粒子はダークマターの風を感じるか

松田恭幸

皆さんは「物理」という学問分野にどんなイメージをお持ちでしょうか?え、面白そう?ありがとうございます!私たち研究室のメンバーは物理学を研究していますから、面白そうと言ってもらえると嬉しくなります。でも、実のところ、いろいろな方とお話をしていると、何が面白いのか分からないとか、数式ばかりでつまらないと言われてしまうことも多いのです。教養学部報に私たちの研究室の研究成果を紹介させて頂くこの機会を通して、少しでも物理の面白さに触れてもらえればと思います。
私たちの研究室では「粒子と反粒子の違い」を研究テーマの一つに掲げています。私たちの世界の物質は粒子から成り立っていますが、その粒子のそれぞれの種類に対応して、反粒子と呼ばれる粒子が存在することが知られています。例えば、陽子には反陽子と呼ばれる反粒子が、電子には陽電子と呼ばれる反粒子があります。そして、対応する粒子と反粒子は自然法則の上では同じようにふるまうと考えられています。つまり、陽子と反陽子の質量は同じでしょうし、陽子と反陽子の電荷の大きさは同じでしょうし、陽子が落ちていくのを観測できたら、その様子と反陽子が落ちる様子は同じだろう、ということです。しかし、最初に書いたように、私たちの世界の物質は粒子だけから成り立っているようです。地球の周りだけではなく、太陽系の外を観測しても、私たちの銀河の外を観測しても、反粒子からなる星や銀河系は見つかりません。宇宙がビッグバンによって生まれたときには粒子と反粒子が同じ数だけあったはずなのに、それから約一三八億年経った今の宇宙には粒子しか存在しない。これは大きな謎です。私たちの研究室ではこの謎を解き明かそうと、スイスのジュネーブ郊外にあるCERN研究所で、理化学研究所やドイツのマインツ大学などと共同して、反陽子を測定装置の中に閉じ込めて磁場中での運動を精密に観察し、その運動の様子から反陽子の電荷と質量の比や磁気モーメントを世界最高の精度で測定するとともに、陽子との比較を行ってきました。
ところで、宇宙にはもう一つ、大きな謎があります。私たちの宇宙にどれだけの物質があるのかを銀河の運動の様子などの様々な観測から見積もると、これまで私たちが観測してきた物質の五倍以上の量の「見えない」物質が存在していることが分かってきたのです。この物質は「ダークマター」と呼ばれ、ダークマターを構成する粒子は私たちの周りにも銀河系の星々の間にも、いたるところに存在していると考えられています。しかし、このダークマター粒子は様々な試みにも関わらず未だに見つかっておらず、その性質は大きな謎のままとなっています。ダークマターが見つからないということは、ダークマター粒子は私たちの周りの物質を作っている粒子や光とはほとんど相互作用しないということを意味しています。それではダークマター粒子と反粒子の相互作用はどうなっているのでしょう?これを調べてみようと私たちの研究グループは思い立ちました。
ご存知の通り、地球は自転しています。そして地球は太陽の周りを公転し、太陽系は銀河中心の周りを運動しています。そして、ダークマターはいたるところに存在していると考えられています。ということは、地球の上にいる私たちはダークマターの中を動いているということになります。普段、空気の存在に気が付かない私たちも、走る車の窓から顔を出すと強い風が当たることで空気を感じることができるように、ダークマターの風を感じるような実験はできないでしょうか?
ここで前に述べた反陽子の磁気モーメントの測定実験を改めて考えます。この実験では反陽子を測定装置の中に閉じ込めて磁場中での運動を世界最高の精度で観察してきました。もし、ダークマターの風が吹いていて、その強さや向きが地球の自転に応じて周期的に変わるなら、反陽子の運動の様子もダークマターの風に吹かれて周期的に変わるはずです。もしその変化が観察できれば、世界で初めてダークマター粒子を直接検出したことになるだけではなく、ダークマター粒子との相互作用を通して世界で初めて「粒子と反粒子の違い」を見つけたことになります。うまく行ったら一挙両得です!
世の中そんなにおいしい話が転がっているはずはなく、残念ながら反粒子でダークマターの風を捉えることはできませんでした。しかし、世界で初めて反粒子とダークマター粒子の間の相互作用の大きさに上限を与えることに成功し、その成果は昨年の十一月にNature誌(Nature 575, 310-314)に掲載されました。現在もさらに感度を上げて実験を行うべく、装置の開発と改良を進めています。
私の好きな言葉の一つに、宇宙飛行士のアームストロング氏が語った「謎は不思議(wonder)という感情を呼び起こす。その不思議こそが人が何かを理解しようとする欲求の根幹なのだ」というのがあります。物理(あるいは自然科学一般)はこれまでに様々な謎を解き明かし、自然に対する理解を深めてきました。そのことで世の中からロマンが無くなってしまった、と批判されることもあります。でも考えてみると、何が起こるか分からないとき、そこには何の謎も不思議もありません。文字通り「何が起きても不思議ではない」からです。自然に対する理解が深まるなかで、その予測と外れた事柄が謎として認識され、不思議を生むのです。科学の最前線で研究するということは、新しい謎や不思議を見出していくこととも言えます。この文章を読んでくださった皆さんも、一緒にこの素晴らしい(wonder-full)世界を探索しませんか?

ダークマターの風の強さと向きが地球の運動に応じて変わる様子-修正版.png

ダークマターの風の強さと向きが地球の運動に応じて変わる様子

(相関基礎科学/物理)

第617号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報