HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報619号(2020年6月 1日)

教養学部報

第619号 外部公開

細胞サイズスケールの相転移

柳澤実穂

冷凍庫の氷を鍋に入れてコンロで加熱すると、氷はやがて液体の水、そして蒸気となり空気中へ飛んでいく。こうした水が示す異なる状態を相と呼び、氷(固相)・水(液相)・蒸気(気相)間の状態変化を相転移と呼ぶ。こうした水の固相・液相・気相の相互変化に代表される相転移は、化学あるいは物理学において学ぶ現象であるが、実は生物とも深く関わっており、生物の最小単位である細胞中にも存在する。細胞表面を覆う細胞膜の内側にある細胞質には、デオキシリボ核酸(DNA)やリボ核酸(RNA)、タンパク質など様々な生体物質が存在しており、そこで見られる相転移が生命機能や状態を変化させることが知られている。例えば、アクチン等の骨格系タンパク質は、バラバラな状態である液相と互いに結合して繊維状となる固相との相互変化を示す。この液─固相転移を利用することで、アメーバを含む細胞は運動し、傷の修復やがん細胞転移が生じる。また近年、細胞内ではRNAとそれに結合する特定のタンパク質が会合し、液相にある細胞質から別の液相を形成することで区画を制御することが分かってきた。この相分離と呼ばれる現象は、外部刺激などによって形成と消滅を繰り返すため、会合する特定物質の量の調整に寄与していると考えられている。さらに、区画化された液相が固相へ変化することで筋萎縮性側索硬化症(ALS)や認知症を引き起こす可能性が強く示唆されるなど、相分離と生命機能、そして病気との関係解明が求められている。
このように、生物学において近年特に注目を集めている相転移や相分離であるが、物理学や化学においては非常に古くから研究がなされてきた。様々な化学物質、生体物質に対して試験菅中での振る舞いが解析され、その際の状態変化が理論的予測と一致することが確認されている。こうした従来の実験的研究は、目に見えるマイクロリットル(一ミリリットルの千分の一)以上の体積量に対するもので、細胞とは雲泥の違いがある。一つの細胞がもつ体積は、その百万分の一に該当するピコリットル量であり、半径が数マイクロメートル(一ミリメートルの千分の一)の球体積に該当する。こうした非常に小さな系での相転移や相分離は、従来の試験管中と同じだろうか。この質問に対する答えが得られれば、複雑な細胞中での相転移現象を理解するための足掛かりとなるはずである。
こうした背景から我々は、タンパク質溶液等を用いて液滴を作成し、個々の液滴に対してその内部での相転移や相分離とそれに伴う力学的変化を測定してきた。その結果、液滴の大きさが細胞サイズ程度まで小さくなると、内部での相転移や相分離の挙動が大きく変化することを報告してきた。例えば、タンパク質溶液に対する液相・固相の転移やそれに伴うタンパク質のナノ構造転移、タンパク質合成効率、異なる物質間の相分離などが、小さな液滴中では促進されることが分かってきた。これらの理由として、微小体積(注1)や液滴表面に存在する界面の効果(注2)が挙げられる。系の体積が小さくなると、必然的に体積に対する表面積の割合が大きくなるため、これら二つを完全に独立させて評価することが難しい。そこで我々は、液滴を変形させることで、体積一定のもと界面の寄与を相対的に変化させた。その結果、上記のサイズ依存的な相転移や相分離の変化が生じる体積条件はより広まり、微小体積よりも界面の効果が支配的となり生じることが示された。界面の効果は、一般には界面からナノメートル(液滴のさらに千分の一のサイズに該当)の距離のみで支配的となることから、液滴全体へ影響を及ぼすほどではないと予想されてきた。今回の結果は、この従来の予測とは異なり、界面効果は三次元的に閉じ込めることにより強まることを意味するが、その物理的要因は不明瞭であり、今後明らかにしたい。
我々はこうした液滴での相転移や相分離を皮切りに、細胞のようにエネルギーのやりとりにより生じるガラス化(注3)、そして細胞が分裂する際の分裂面を決定するタンパク質の反応拡散波等の非線形現象へと研究対象を拡張してきている。その先には細胞サイズスケール特異な法則の解明と、生命の物理的理解の進展が期待される。
注1:系に含まれる分子数が少なくなり、溶液全体の振る舞いを統計的に記述できなくなること 
注2:静電相互作用や流体力学的相互作用等により、界面近傍で現象が変化すること
注3:エネルギーのやりとりが停止すると細胞質のネバネバ度を表す粘度が急激に増すこと

(相関基礎科学/先進科学)

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