HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報619号(2020年6月 1日)

教養学部報

第619号 外部公開

<時に沿って> ファラウェイ・ソー・クローズ、あるいは無限の迷宮

マチュー・カペル

二〇一九年十一月に超域文化科学専攻・表象文化論の准教授として着任しました。専門は日本映画史を中心とした現代映画の研究です。学際的かつ比較論的な視点のもと、映像分析のためのツールはもちろん、文学論や現代思想の知見も取り入れながら、当初はとりわけ一九五〇年代後半に始まった高度成長期における映画界の転換について研究してきました。近年では、一九八〇年代以降の変遷を観察し、制作条件の変化のみならず、作家、作品ごとのテーマ、美学、および倫理を分析・理解することも課題です。しかし二十年代末に活動したプロレタリア映画細胞「プロキノ」や戦時下映画にまで遡る私の研究は結局のところ「昭和映画史」とでも呼ぶべきでしょうか。日本映画史を齧りながら出会った映画監督は主に六十年代に活動した大島渚、吉田喜重、今村昌平、若松孝二、羽仁進、黒木和雄、鈴木清純、松本俊夫、勅使河原宏などであり、またその前世代に属する小津安二郎、溝口健二、今井正、黒澤明です。いまでは、大回りしてきたかのように八十年代にデビューした監督にこだわるようになって、相米慎二や柳町光男の映像作品をどう捉えればよいか、手探りしながら研究しています。ある種の迷宮に迷いながら。
私の研究と経歴は、映画は、ただのエンターテインメントでも、ただの衒学的な遊戯でもなく、現実を適切に理解する手がかりになりうるのだという確信から成り立っているかもしれません。哲学者ドゥルーズに倣っていうならば、やや暗く翳ったいまの世界、メディア・スタディーズが隆盛を見る現状にあっても、映画のイメージを信ずる意義があると考えています。そのかぎりにおいて、私は脱中心化した位置を取りつつあるかもしれません。そもそも、超域文化科学専攻で日本映画史に関する授業を担当することなど、根本的な脱中心性の証左にほかならない、フランス人としてそう深く感じてなりません。
研究のきっかけは、ほぼ二十五年前、吉田喜重監督作品と出会ったことです。我々の世界を再考するには、フランス人である私が欧米から離れ、しかし決して遠くはない日本へ旅立った方がよいと気づかされたように思います。そして、あまりに欧米中心的な映画史を屈折させたり脱中心化させたりしようという目論見を抱くことにもなった。正否はともかく、そうした試みを追究しながら、メキシコへの精神的亡命を語った吉田喜重の著作『メヒコ 喜ばしき隠喩』を仏訳し、また同名の吉田監督作品になぞらえて自分の博士論文を『日本脱出』というタイトルのもとで発表しました。近ごろまで気づかずにいましたが、「旅」「亡命」「脱出」「海外」といったことがわたしにとってある種の癖のように、研究、そして人生の主な手がかりになっているようです。しかし、研究のきっかけとなった吉田監督自身が駒場キャンパスの出身であることを顧みるならば、これは、なんという皮肉なのでしょう。できるだけ遠く行こうとした私はただ出発点に戻ったのではないか、という幻覚に襲われます。ボルヘス的な迷宮を迷うかのように。

(超域文化科学/フランス語・イタリア語)

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