HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報619号(2020年6月 1日)

教養学部報

第619号 外部公開

<本の棚> 河合祥一郎 著『心を支える シェイクスピアの言葉』

井上博之

死後四〇〇年以上が経過した現在においてもウィリアム・シェイクスピアが残したことばはしっかりと生きている。そう実感する機会は今までに何度もあった。小説を読んでいてさり気なく引用されたシェイクスピアのことばに出会ったことは数えきれないほどあるし、何気なく映画を観ていてはっとした経験もある。すぐに思い出せるのはジョン・ヒューストンが監督した一九四一年の映画版『マルタの鷹』の最後で主人公役を演じるハンフリー・ボガートがつぶやく台詞がシェイクスピアの『テンペスト』につながっていると気づいたときのこと。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バードマン』(二〇一四年)の後半、路上で『マクベス』の有名な一節をがなりたてる謎めいた男が突然登場する場面も鮮烈だった。そうとは知らずに接してきたシェイクスピアに由来する表現もおそらくたくさんあるだろう。
著者の河合祥一郎先生にはすでにシェイクスピア作品の翻訳も一般読者向けの本も多数ある。タイトルから分かるように本書はベテランの案内役が人生指南書の体裁を借りて編みあげたシェイクスピア名台詞集である。「生き方に迷ったら」、「人間関係に悩んだら」など、生きていくなかで遭遇しうる困難な状況にあわせて全体が八つの章に分割されている。本を開くと右ページにはシェイクスピア作品からの台詞の引用と著者による翻訳、左ページには台詞の解説とそこから引き出される教訓が並ぶ。やわらかい語り口で説明が続くが、シェイクスピアの生きた時代についての記述や彼の作品にあらわれる重要主題の指摘も随所にはさまれる。巻末には簡潔にまとめられた全作品のあらすじが付され、これからシェイクスピアの作品に直接触れたい読者にとっては格好の入門書となっている。原文からの引用と訳文とを見比べれば英語の勉強にもなるし、巧みな訳の数々に膝を打つことにもなるだろう。著者がお茶目な側面を見せてくれる瞬間もある。一つの例を引くと、「最も『濃い』時間を過ごすにはどうしたらいい?/答えはもちろん、『恋』。」一瞬どう反応するべきか分からなくなる人もいるかもしれないが、気を取り直してページをめくろう。
シェイクスピアのことばから実践的な教訓が次々と引き出されていくけれども、そのいくつかは読者の置かれた状況によって「心を支える」力を左右されてしまうかもしれない。たとえばこの原稿は締め切り前日の深夜に書かれているのだが、そのような状況にある評者が心を支えてくれることばを求めて本書を開くと「いつも駆け込みで間に合わせるような仕事をしている人は、立ち止まって自分の仕事を考え直した方がいい」という記述が胸に突き刺さる。めげずにほかのページを開くと、「人間ってなんて馬鹿なんでしょ!」という『夏の夜の夢』からの引用、および「人間は愚かなことをするから人間的なのだ」というユマニスム思想をめぐる解説に少し慰められる。
ストレートな教訓が引き出されていくだけではもちろんない。シェイクスピアは一筋縄ではいかない人間という存在の鋭敏な観察者であったし、そのことばは著者のいうように「さまざまな読みの可能性」へと読者を誘うものだ。本書で出会った台詞がきっかけとなり、作品に直接触れてシェイクスピアの残したことばの意味を自分なりに考えてみたいと思ったとき、その読者に対してこの本は十分に人生指南書の役割を果たすことになる。
最初に触れた二本の映画に出てくる台詞もこの本のなかで取りあげられている。関心のある人は本書の七四ページと一九六ページを読んだうえで映画を観てほしい。一六─一七世紀のイギリスに生きたこの劇作家が、現代のアーティストにインスピレーションを与え続けることばをたしかに残したのだと実感できるかもしれない。そしてシェイクスピアの作品にもそれ以外の古典にも幅広く触れながら、河合先生の真似をして自分の心を支えることばをノートに集めてみてほしい。文学を読む意味ってなんだろうという問題は教室で学生に向きあっているときも、一人で論文を書こうとしているときにもつねにどこかで意識せざるをえないものだ。簡単には答えを出せない問題だが、忘れないようにといつも自分にいい聞かせているのは読むことと生きることは切り離せないということ。本書は文学と人生の冒険の入り口に立つための有益な案内役となってくれるだろう。

(地域文化研究/英語)

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