HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報619号(2020年6月 1日)

教養学部報

第619号 外部公開

<時に沿って> 「過去」から「未来」へ

秦 邦生

二〇二〇年四月に総合文化研究科言語情報科学専攻に着任した秦邦生です。専門は英文学で、英語部会の所属です。駒場に学んだのはもう二十年以上も昔で、当時の自分がなにを考えていたのかもほとんど覚えていません。学生として長く過ごしたのは本郷の方なので、特に三四郎池の畔のひっそりした雰囲気に比べて若々しい印象のある駒場に足を踏み入れると、まだなにか眩しいような、すこし気恥ずかしい気分です。
私のおもな関心はイギリス小説、特に「モダニズム」と称される実験的な小説群をながく研究してきましたが、最近では言語テクストと映像テクストの横断的関係性に興味を持ち、文学作品の映像化(翻案/アダプテーション)の研究も進めています。昨年九月には『イギリス文学と映画』という共編著も刊行しました。こういう関心はひたすら「言葉」と向き合うべき文学研究者としては邪道かもしれませんが、個々のテクストがどのように流通し、受容され、さまざまな解釈・改変を経て受け継がれてゆくのか、言ってみれば文学の多少なりとも世俗的なありさまに関心を持っているのだ、と自分では考えています。つまり世の中とのかかわり、ということです。
駒場に来る前は津田塾大学で九年、青山学院大学で四年間教えました。玉川上水沿いの緑豊かな前者では駆け出し教員として悪戦苦闘し、大都会のどまん中の後者ではあっという間の目まぐるしい日々を過ごしました。駒場は渋谷からも徒歩圏内ですがもうすこし落ち着いた立地で、三月には研究室引越しも済ませ、これから新しい環境に馴染んでゆこう......と考えていた矢先のコロナウイルスの流行で、この文章を書いている四月半ばの段階ではしばらく研究室に立ち入ることも難しい状況にあり、学生や同僚の先生方と直接に顔を合わせる機会も、まだほとんどありません。
もちろん自分の不自由など、この春に入学・進学した学生さん達の困難や苦労に比べれば、まったく些細なものです。いつまで続くかもわからない不幸な春ですが、オンライン授業という不自由な方法でも有意義な学びをきちんと提供できるのかどうか、まずは試行錯誤の日々が続くでしょう。この文章が皆さんの目に留まる頃には、この大きな災厄にも、一定の区切りが見えていれば良いのですが。
「社会距離戦略」の只中でも、書く時には「今」の先にいる読者のことを考えます。ディストピアにて一人孤独に日記をつける(『1984年』の)ウィンストン・スミスもまた、どれほどの絶望のなかにあっても、書く時には未来のことを思い描いています。ごく単純化して言えば、「過去」を継承し、「未来」を想像させる、そういう言葉の力に私は取り憑かれているのであって、これから、そういう認識を広げるための教育と研究を落ち着いてできる日々が取り戻されることを真剣に願っております。

(言語情報科学/英語)

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