HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報620号(2020年7月28日)

教養学部報

第620号 外部公開

駒場ハチ公物語

田村 隆

620_02_1.jpg渋谷の待ち合わせ場所と言えばどこが思い浮かぶだろうか。学生は渋谷マークシティのエスカレーター付近を「マーク下」と呼んで集まると聞くし、南側にはモヤイ像もある。古典的にはやはりハチ公前広場であろう。数年前までは灰皿が置かれていて煙の中のハチ公を気の毒に思っていたが、今は禁煙となり、待ち合わせもしやすくなった。ハチ公の物語を思えば、家族であれ友人であれ、「大切な人を待つ」にはたしかに恰好の場所と言えよう。
そのハチ公は「ハチ」という名の秋田犬で、飼い主の上野英三郎博士(一八七二〜一九二五)の教え子達が、先生の飼い犬を呼び捨てにはできないということで「公」付けにしたという。ハチ公が大正十三(一九二四)年に上野家にやって来たとき、博士は東京帝国大学農学部教授であった。今農学部のある弥生キャンパスにハチ公没後八十年(平成二十七年)を記念して新たに「上野英三郎博士とハチ公」像が建てられたが、当時の農学部は駒場にあった(弥生キャンパスには教養学部の前身、旧制第一高等学校があった)。
ハチ公が渋谷駅で上野博士を待っていたことは忠犬ハチ公の物語として広く知られてきた。たとえば以下に掲げる修身の教科書『尋常小学修身書』巻二の教材「恩ヲワスレルナ」のように(ルース・ベネディクト『菊と刀』でも紹介された)。発行は昭和九(一九三四)年十一月二十二日だが、このときハチ公はまだ生きていた。         『尋常小学修身書』巻2
ちなみに、渋谷駅の初代ハチ公像(戦時中、金属供出で溶かされてしまった)の除
幕式(昭和九年四月二十一日)にも、当のハチ公が臨席した。ハチ公が死んだのは昭和十年三月八日である。教科書に戻ろう。
  サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ ニ 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕カタ カヘル コロ
  ニハ、マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
しかし、考えてみればこれは随分と奇妙な話である。上野博士の自宅は渋谷区松濤、今のBunkamuraの裏手にあった(付近の大向小学校を撮った当時の写真に上野家も写っている)。大学と渋谷駅の間にあたる。そこから駒場への徒歩十分程の通勤にわざわざ反対方向にある渋谷駅を使うだろうか。そもそも、ハチ公が上野博士と一緒に過ごしたのは大正十三年の一年余りのことで、このときにはまだ井の頭線は通っていない。前身の帝都電鉄が開通するのは昭和八年である。上野博士は徒歩で駒場の農学部に通勤し、ハチ公はその正門まで送り迎えをしていたらしい。そのことは一ノ瀬正樹・正木春彦編『東大ハチ公物語─上野博士とハチ、そして人と犬のつながり』(東京大学出版会、二〇一五年)にも「上野博士は駒場の大学に徒歩で通勤し、ハチは大学にも送り迎えしていた」と指摘があるし、林正春編『ハチ公文献集』(一九九一年)所収の斎藤弘吉氏による「農学部の表門付近で馬上から見かけたことがあったが、この頃のハチは飼主の上野英三郎博士の愛情のもとに充ち足りた生活をしていた幸福な時代であったのである」という証言などからも確認できる。

    駒場時代の農科大学・農学部正門
620_02_2.jpg上野博士が電車を使ったのは西ヶ原にある農商務省農事試験場(跡地の滝野川公園に記念碑が立っている)を訪れるときなどであったというから(『渋谷駅一〇〇年史 忠犬ハチ公五〇年』日本国有鉄道渋谷駅、一九八五年)、毎日電車通勤であったかのような話は誤りである。仲代達矢主演の映画「ハチ公物語」(一九八七年)には上野秀次郎教授が朝渋谷駅の改札で「はい、それじゃ行ってくるからね」とハチ公と別れた後、電車の中で新聞を読み、「東京帝国大学農学部」の表札が架かる門をくぐるシーンがあるが、現実にはこのようなことはなかったはずである。そのリメイク作品で、リチャード・ギア主演の「HACHI─約束の犬」(二〇〇九年)のポスターにある「ベッドリッジ駅、午後5時。駅にはいつも君が待っていた」という惹句も原作のストーリーを引き継いだもので、電車通勤のパーカー・ウィルソン教授をHACHIが駅まで送り迎えする。渋谷駅で博士を待つハチ公の話が有名となったのは、『朝日新聞』昭和七年十月四日朝刊の斎藤弘吉氏による記事「いとしや老犬物語」によると言われる。そこにはたしかに「帰らぬ主人をこの駅で待ちつづけてゐるのだ」とあるがそれは博士の死後のことであって、生前については「ありし日のならはしを続けて」とあるのみで、実はハチ公と博士が毎日一緒に渋谷駅まで行き帰りしていたとは記されていないのである。それが、博士の死後に渋谷駅で待っていたハチ公の行動から逆算して、生前の博士を毎日渋谷駅に送り迎えしたというストーリーが、おそらくは先に紹介した修身の教科書あたりから出来上がったのであろう。
博士が大学で倒れてそのまま亡くなったことを知らないハチ公は、ふだんの送り迎え場所に一向に現れない博士を、駒場でなければ渋谷駅からの遠出ではないかと健気にも考えたのであろうか。ハチ公の気持ちは知るべくもないが、昭和九年の岸一敏『忠犬ハチ公物語』(モナス)には博士の死を知らないハチ公と「ジヨン君」、「S君」(博士の別の飼い犬)の以下のような会話が描かれ、駒場と渋谷の関係が踏まえられている点で注目される。
  「をいジヨン君! 博士がゐた?」「ゐないよ」「さつぱりわからないのだよ」「旅行へ行かれたのだらうよ」
  「いやゝ僕が昨日農大までお見送りしたのだから旅行ではないよ」(中略)とうゝジヨン君とS君と相談して
  渋谷駅にお迎へに出ました。
ハチ公が博士を送り迎えした場所についてもう一つ注意すべきは、当時の農学部正門は今の駒場キャンパス正門の場所にはなかったという点である。炊事門を出て渋谷方面に歩く途中、松濤二丁目交差点の手前に、三田用水の暗渠をまたぐ箇所がある。デジタル公開されている大正十一年四月一日現在の「東京帝国大学農学部建物位置図」や、日本地図センターのアプリ「東京時層地図」で確認すると、この辺りに当時の正門があったようである。手元の絵葉書を見ると、正門の前に橋の欄干が写っており、ここが三田用水とおぼしい。ハチ公はこの辺りまで博士の送り迎えをしていたのだろう。駒場から渋谷に続く道はハチ公の足跡をたどれる、いわばハチ公通りである。

(超域文化科学/国文・漢文学)

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