HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報620号(2020年7月28日)

教養学部報

第620号 外部公開

<本の棚> 大石和欣 編 『コウルリッジのロマン主義』

吉国浩哉

イギリス・ロマン主義は『抒情歌謡集』によって開始された、と高校世界史的によく知られており、ウィリアム・ワーズワースがその著者であることもまたよく知られている。しかしその共著者のサミュエル・テイラー・コウルリッジとなるととたんにあやしくなる。なるほど、日本の大学の英文科にいけば「老水夫行」や「クブラ・カーン」の題名ぐらいは聞くことはあるかもしれないが、それ以外に何を書いた人物かということはあまり知られていない。けれども、コウルリッジは十九世紀以降の文化に世界規模で影響を及ぼしている。たとえば、ポーやエマソンといった十九世紀アメリカの文学者にとって、コウルリッジの著作は不可欠なものだった(本書第九章参照)。そして、北村透谷がエマソンから大きな影響を受けたことを考えれば、間接的にその影響が日本にまでおよんでいると考えることも可能だろう。柄谷行人が指摘した「内面の発見」も、元をたどればコウルリッジまでさかのぼれるかもしれないのである。このような影響の大きさからも分かるように、コウルリッジとは当時随一の博覧強記の思想家であり、「聖書から政治まで、古典からドイツの哲学まで、そして神秘主義から科学的知見まで、あらゆる知の領域を縦横無尽に横断し、古今東西の知性との対話を試み、あらたなエピステーメーを切り開こうとした」のである(本書「あとがき」)。そのようないわば十九世紀版「知の巨人」に日本の研究者たちが挑んだのが本論集である。
ゆえに、そのアプローチは哲学、科学、宗教、教育、政治、経済、そして文学などさまざまな角度からなる。しかし、それでも本書の全編を通じて強調されているものがあるとすれば、それは、「真の直線」のように、精神の「外部」には存在しないものを「内的感性」によって「直観的に認識する」こと、すなわち、外的な諸状況からは独立して機能するものが人間の「内面」にあると考えた思想家としてのコウルリッジであろう(本書第一章、『文学的自叙伝』より引用)。コウルリッジによる政治論集、『平信徒の説教』を扱う三章において、この「内面」は「オイコノミア」となる。もともとギリシア語で「家政」を意味していた「オイコノミア」とは、英語ではeconomyであり、一般には「経済」の意味で使われることが多いが、自然の「秩序」や「理法」あるいは神の「摂理」を意味することもある。そしてコウルリッジは、経済政策を議論するに際し、この「摂理」としてのオイコノミアを主張する。というと、あたかも「神の見えざる手」を前提とするような自由放任経済を主張すると想定されるが、コウルリッジの思想が独特なのは(そして、その点が近年のアガンベンによる「統治」の技術としての「オイコノミア」とはまったく異なるのだが)、この「オイコノミア」の概念をもとに政府による富の再分配が主張されることである。すなわち、神や自然の「摂理」としてのオイコノミアは未だ実現しておらず、それに向かって人間は積極的に努力ないしは「努め」を果たさなければならないのである。このオイコノミアは人間の条件としてすでにその「内面」に存在してはいるものの、それを現実化するかどうかは個人の自由にかかっているのである。また、この「オイコノミア」の概念をもとにコウルリッジは「たたきこみ」教育批判を展開する。つまり、人間の精神を「白紙」と前提してそこへの書き込みを主眼とするような教育に対し、初めからそこにあるが眠ったままでいるような人間の「オイコノミア」を呼び覚ますような教育をコウルリッジは主張するのである。このような「オイコノミア」の思想のもととなっているのは、人間が理性存在と有限者に分裂しているとするカントの哲学であり、それはフーコーが『言葉と物』において「経験的─超越論的二重体」と呼んだ状態である。その意味では、この「オイコノミア」をカントの「理性」の概念の、コウルリッジによる独自の発展ということはできるだろう。以上のように、本書はその多彩な論文によって、コウルリッジという捉えがたい知の巨人を、現在まで連綿と続く知識の伝統という文脈の上で、最新の研究成果を踏まえつつ、さらに日本の研究のオリジナリティを加味しながら、再評価を試みたものである。

(言語情報科学/英語)

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