教養学部報
第620号
<時に沿って> 中継ぎ世代
土畑重人
先日、学部時代からの旧友と数年ぶりに会う機会があり、本店閉店のニュースが流れた駒場裏の山手ラーメンで待ち合わせた。彼は本学で学部、修士と進んだ後、霞ヶ関に行った。日本社会の大局を見据え、利害関係のしがらみの中でタブー視されてきた難題にチャレンジしていこうという、行動する若手官僚の一翼として活躍してきた彼の話は、いつ聞いても刺激的である。背脂の浮いた「ゆきラーメン」を夜更けにすすりながら、くだらない話に花を咲かせていた学生時代が懐かしい。活躍という言葉から想起される社交性には縁遠い私だが、研究業界に進み、おそらくは彼と同じように自分や他人、社会に悩みながら、幸いにも彼が育った大学で教育の任を預かることとなった。感慨とともに身の引き締まる思いである。
旧友との話ははずんで、同じく駒場裏のフレッシュネスバーガー(この富ヶ谷店が1号店である)にハシゴすることになった。話は職場の後輩や学生のことに及ぶ。不惑という節目を前にして、彼も後進育成の任を負い始めたようだ。アイスコーヒーを飲みながら、彼が唐突に「環境問題って聞いて、どんな例が頭に浮かぶ?」と尋ねてきた。地球温暖化、持続可能性、それからえーと、私の頭の中に、高度経済成長期の四大公害の例が浮かんでくる。そのことを話すと「そう、それ!」どうやら彼の狙い通りだったようだ。
彼いわく、我々の世代(一九八〇年前後の生まれ)は、二十歳代までの成長の過程で、価値観の大きな変化に直面した世代だという。ベルリンの壁崩壊、バブル崩壊、高度情報化社会の到来等々、時代の大転換のさなかに教育を受けた我々の世代は、教科書や教師が体現する転換前の価値基準と、肌感覚としての転換後の価値基準の両方の中で成長してきた。我々より上の世代は、転換前に確立したローカルなスタンダードが行動の支配原理になりがちだろうし、我々より若い世代は、転換前のことにはそもそも実感がない代わりに、地球の裏側のことにも掛け値なしのリアルを感じることができる。ここには根源的な世代間ギャップがある--実体験に基づいた彼の話はなかなかに説得的だった。そして、それ以上に、私自身がなぜ、研究業界の趨勢や社会の情勢に対して、しばしば非常に「あまのじゃく」な感想を持ってしまうのかということに、ひとつの答えが得られた気がした。「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」(若山牧水)である。
さて、感傷に浸っているわけにもいくまい。この世代間ギャップの中で、我々の世代に課された使命は何だろうか。旧友はいみじくも、我々を「中継ぎ世代」と位置づけた。目下の中間管理職の立場を越えて、転換前後を知る中継ぎ世代は、そのキャリアを通じて、世界を次の世代につつがなく受け渡す使命を担っているのだ。守るべきは守り、変えるべきは変える。私も中継ぎ世代の一員として、ここで伝えたいことが一つある。冒頭の山手ラーメンは、惜しまれつつ二〇二〇年六月に閉店を迎えたが、裏門により近い場所に新館がオープンするそうである。元アルバイトとして、嬉しい限りである。
(広域システム科学/生物)
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