HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報621号(2020年10月 1日)

教養学部報

第621号 外部公開

なぜ苛立つのか、どう落ち着くのか。

岡ノ谷一夫

コロナ禍による蟄居生活も五ヶ月が過ぎた。この文章が世に出るころも、まだ世界の緊張は続いているだろう。ニュースを見ては苛つき、SNSを見ては苛つき、本を読んでは苛つく日々が続いている。本当はこの五ヶ月の間に、国際会議でベルギーとポルトガルとフランスとイギリスに行くはずだったのに。世界中を旅して美味しいものを食べ、いろいろな人と知り合い、語り合うために研究者になったのに、話が違う。
などと嘆いていても詮無い。せっかくこの紙面を使わせてもらうのだから、なぜ苛つくのか、どう落ち着けば良いのか、よく考えてみようじゃないか。
なぜ苛つくのか。人間はどうも、好きな人間と相互作用するのが最も楽しいのであって、そのような機会が予定されていたのに突然奪われると、それは苛つく。報酬(餌)を得る予定だったのに得られなければ、ラットだって苛つく。齧られるかも。
しかしそれだけではないようだ。遠隔が問題だ。いったん遠隔会議や遠隔講義が動き出すと、それらが際限もなく回り始める。今では遠隔会議の日程を調整するための日程を調整するという、無間地獄に落ちてしまった感がある。でもこれで遠隔会議や講義ができなかったなら、もっと苛ついていたであろう。だからこれが次善の策であることはよく理解しているし、全学的にこれを可能にした人々にはたいへん感謝している。しかし。
遠隔だから、相手には会えない。遠隔だから怒っても相手を殴れないし、愛しくても抱きしめられない。もちろんそのようなことはお互い大人だからしないが、遠隔であることで行動表出の機会がはじめから限定されてことに苛つく。そもそも会話は遠隔状況で進化したものではない。相手のあらゆる意図的感情的な表出が情報として得られる対面場面で進化したのだ。そうした情報が相互にフィードバックとなり会話は成立する。講義だって会議だってフィードバックの少ないところで話すのは苛つくのだ。SNSの炎上が同じ原理で起こる。
そしてこのような状態を「新常態」とか、「withコロナ」とか、「新しい生活様式」とか言う、臭い物には蓋をした結果の、耳慣れない言い方でごまかそうとしている為政者にも苛つく。このような状態からはできるだけ早く脱したい。去年までの暮らしに戻りたい。早く特効薬とワクチンができて欲しい。
私にはワクチンは作れない。だから遠隔をなんとかしたい。講義では、私は学生に顔出し・声出しを要求する。たとえ発言しなくても、マイクがひろう日常音はフィードバックとして大切だ。たとえ質問が出てこなくても、学生の顔が見えると眠気が和らぐ。学生は眠そうでも許す。では学生側の苛立ちはどうするか。直接のふれあいができない以上、カメラとマイクを通したふれあいでもないよりましだ。だから私は講義の中で「雑談の時間」を設ける。私がそのまま居座ると雑談が盛り上がらないので、私はしばし退出する。講義時間のうち、二十分くらいはそういう時間でも良い。
私は当初、遠隔講義で伝達できるものは限定されていると考えていた。しかし実際自分で遠隔講義をやってみると、思ったよりも教えたいことが伝わっている感触を受けた。定期試験の答案からも、その手応えは裏付けられた。相互のフィードバックがある程度あれば、遠隔講義でも教えること・学ぶことは可能なようである。
では現状をよりよくするにはどうするか。例を挙げる。ミネルバ大学というものがある。講義はすべて録画の遠隔である。キャンパスは持たず、世界七つの都市を四年かけて回りながら、文化と社会と人間の多様性を学ぶ。学生達はそれぞれの都市で全寮制で暮らす。講義は教材としていつでも視聴可能である。では相互作用はどこから来るか。学生は十九人以下の小さなクラスを作り、この中で講義内容について対面で徹底的に議論する。学生はそこで知識を得、知識の伝え方を学ぶ。学びに大切なのは教師とは限らない。学んだ事柄を他者との相互作用のもとに考え抜く機会こそが大切なのだ。今やミネルバ大学はハーバード大学を袖にする学生がいるほどの超難関校である。
現状では対面での相互作用はできないが、遠隔での相互作用でもある程度の学びは可能であるはずだ。相互作用は学生にも教師にも正の報酬として作用し、苛立ちを抑えることにつながる。だから学生諸君は遠隔講義中の顔出し・声出しに協力した方が良いし、教員は学生だけで議論できる時間を作るべきだ。工夫次第で遠隔は対面以上の効果を上げる。
次に、どう落ち着くのかの問題である。コロナ禍のもと、人々は世界レベルで落ち着いていない。コロナ禍の仕組みがあまりに複雑であるがゆえに、私を含め、ニュースを見過ぎた人々は根拠のない評論家になってしまう。人間はすぐに集団を作ってしまう。そして自分の属する内集団の成員は正しく、そうでない外集団の人々は愚鈍だと思ってしまう。その結果、集団間に軋轢が起こる。軋轢は国どうし、地域どうしのみならず、コロナ禍の見方の異なる集団間でも起こる。これでは落ち着けるはずはない。ニュースを見過ぎてはいけない。今は人智を集めて感染症を制圧するべき時期なのに、人々は、小集団に別れていがみ合っている。
だから、私は百年後の世界を考えることにした。人間は外集団に排斥的になるが、抽象的な人類愛は維持できる。そこを利用するのだ。百年後の世界に私はいない。しかしその世界は、今より少しだけ幸せなであって欲しいだろう?そのためには、自分達が小集団を作りやすい存在であること、小集団の利益に動かされ易い存在であることを理解することが必要だ。そして、自己の所属を想像の上で組み替えたり、集団の階層を登ったり降りたり、外集団に所属した自分がどう振る舞うかを想像する努力をしてみよう。
そのような想像力を養うのはやはり読書だ。小説と歴史書と科学書を読もう。人間がどう生きてきて、どのような生き方があり得て、これからどうなり得るのかが書いてある。それを自分の想像力で直接感じるのだ。今は生身の人間とふれあうのは制限されているが、書物に住む想像上の人物とふれあうのは自由だ。そしてそのための時間は、工夫すれば確保できるだろう。
さらに、蟄居せざるを得ないこの時間にこそ、統計学とプログラミングを学んでおこう。百年後のことではなく、私たち自身の時代を幸せに生きていくために必ず必要だから。統計学はデータにもとづく推論方法を教えてくれる。そしてプログラミングは、その方法を実現する技術と論理を与えてくれる。これらを身につけることで、ワイドショーの無責任な発言に流されず自分の判断ができる人間になろう。

(生命環境科学/心理・教育学)

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