HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報621号(2020年10月 1日)

教養学部報

第621号 外部公開

<本の棚> 森政稔 著 『戦後「社会科学」の思想 丸山眞男から新保守主義まで』

橋本摂子

どんなに精緻に編み上げられた理論よりも、現実の方がはるかに複雑で難解だ。現実はつねに思考を凌駕し、どれだけ周到に構えても掴んだ端からすり抜けていく。その意味で、本書は現実を追いかけ捕まえようとする社会思想の格闘史でもある。時代区分は「戦後」から「現代」、学問領域区分としては政治史、経済史、社会史、国際関係史を横断する。つまり「相関社会科学」である。
第Ⅰ部「『戦後』からの出発」では、丸山眞男を始めとする日本の「知識人」たちが、「敗戦」という経験をへて「戦後」をどのように理論化していったか、国内外の動向に合わせてその軌跡が辿られる。労働者から市民、市民から大衆へ、そしてⅡ部の「大衆社会の到来」では、戦後に現れたアメリカ的消費型「大衆社会」と、その前史である全体主義の台頭を支えた大衆運動との連続性と断絶が指摘される。続くⅢ部「ニューレフトの時代」では、六〇〜七〇年代に生じた知の枠組みの大規模な刷新を主題に、ニューレフトの台頭、若年層を中心とする解放運動の興隆、後の「ポストモダン」の源流ともなるポスト構造主義の誕生、反動的保守層の萌芽が論じられ、Ⅳ部「新保守主義的・新自由主義的転回」へと至る。
全編興味深く拝読したが、本書の魅力はなんといっても、戦後日本の論客たちの知的営為を、その内容を詳らかにした上で、現在まで続く一つの思想史的文脈に載せたところにあるだろう。ただし正直にいうと、私は本書で取り上げられた「知識人」、特にⅠ部に登場する、当時の日本の論壇をリードしたという方々について、ほとんど知識がなかった。少数の例外を除き、名前しか知らない人、名前すら知らない人多数(その中には私の専門であるはずの社会学者たちも含まれる)、議論の中心を占める丸山眞男にいたっては、辛うじて「タコツボ(あと、確か官僚批判)の人」という体たらくである(ひどい)。
かように浅学な身にとって、本書のように信頼できる知の見取り図をご教示いただけたことは、まずもってただひたすらありがたい。それが第一印象である。しかし自分の怠慢を棚に上げるなら、なぜここまで知らないのかと不思議にも思う。知らないのは、知らなくても仕事に支障がないからなのだが、なぜ支障がないのかといえば、そこでの議論に現在の知の枠組みとの連続性を見出すのが、現状かなり難しいためである。本書を通じ、その根源的な理由はおそらく教義化された「マルクス主義」(決してマルクスそのものではない)にあったのであろうことを学んだ。何しろ字面だけ見れば、すでに現実離れしてしまった「階級闘争」「革命」「転向」やらについての各々の解釈の異同をめぐる複雑怪奇な知的応酬である。そこにどれだけ当時の切実な問題意識が込められていようと、時を隔てた部外者にとっては「聖典(お気に入り作品)をめぐるマニア同士の内輪もめ」くらいの距離感(疎外感?)を禁じ得ない。「ポストモダン」にしても然り、一つの思考様式の教義化、一過性の知的流行は宿痾のように、同時代の担い手だけでなく、後代の読み手をも一種の無思考状態へと巻き込んでしまう。そのため本書のように、内外の境界に立ち、現実世界の動向とも連動した領域横断的な視点を取らない限り、なかなか彼らの思考の軌跡を現在につなげ、知的遺産として再定位しようという発想には至らない。以上、自らの不明のエクスキューズである。
おそらく森先生は、本書を通じて一つのありうべき「社会科学」像を提起されているのだろう。思考は現実とのかかわりを通じ、現実と悪戦苦闘する限りにおいて「社会科学」たりうる。ただしこれはかなり厳しい定義だ。なぜならひとたびリアリティが失われれば、同時に「社会科学」たる資格をも失うのだから。われわれが手にしている知的枠組みもまた、少し後から振り返れば「かつて社会科学だった何か」になるのかもしれない。少なくとも「社会科学」に携わる者にそうした緊張感は必要だろう。
本書の議論は丸山眞男に始まり、一周回ってまた丸山眞男へと着地する。さすがの用意周到さだが、「二度目の喜劇」はなんとか回避したいものである。

(国際社会科学/社会・社会思想史)

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