HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報621号(2020年10月 1日)

教養学部報

第621号 外部公開

<本の棚> 福岡安都子 著 『国家・教会・自由  増補新装版 スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗』

古荘真敬

ホッブズ『リヴァイアサン』には、しばしば印象的な仕方で「死」が語られる。曰く、万人の万人に対する戦争が避けられない自然状態においては「持続的な恐怖と非業の死の危険が存在し、人間の生活は、孤独で貧しく、険悪で残忍で、しかも短い」が、しかし、そこから抜け出す可能性はあり、「その可能性の一部は情念に、一部は理性にある」。「人々を平和へ向かわせる情念は、死への恐怖であり、生きるために必要なものを求める欲望である。......理性は、人々が同意へと導かれるような好都合な平和の諸条項を示唆する」と。
なるほどホッブズは、自然法を示唆する理性を、戦争状態からの脱出の鍵として語ってはいる。しかし人間にとって真に内在的なのは、理性よりもむしろ「死への恐怖」という情念であり、それなしには自然法に従う動機など存在しないと、彼は考えていたのではないか? そのような解釈を、私はときどき授業中に試してみたくなる。ハイデガーもまた「世界の内に存在することにとって、自分の死よりもなお高次の審級があるだろうか」と問いかけていた。
だが本当は、こんな解釈だけではホッブズの思想の表面に触れることしかできないのである。このほど十三年ぶりに増補されて新たに刊行された福岡さんの本書は、右のような事柄の先の先にある十七世紀政治思想史の奥深い論争の意味を、われわれに開示してくれる快著である。
この書はまず、ホッブズやスピノザの論敵たちの議論を、「世俗の為政者に従うことを拒むために〈神の言葉〉に訴えようとする議論」として詳細に紹介している。世俗の為政者(主権者)が、社会秩序の維持のために与えうる処罰の物理的な限界は「死」であり、この世に死刑以上の重罰は存在しないように一見思われる。しかし、神が聖書を通して約束する「永遠の生命」あるいは「永遠の劫罰」は、人々にとって、この世における死刑など恐れるに足りなくさせる重大な意味をもちうるだろう。それゆえ人々は、神への服従と主権者への服従との間のジレンマに悩むことになりうる。このジレンマのなかにイングランドの混乱と内戦の原因を見てとったホッブズにとっての課題は、主権者による支配と神による支配とのあいだの緊張関係を、主権者の地位が損なわれない仕方で解決することであった。福岡さんによれば「主権的預言者」という観念がホッブズの見いだした卓抜な答えである。この観念を旧訳聖書のテクストから発掘し彫琢することによって、ホッブズは、〈神の言葉〉の効力は、実は世俗的な主権者(としての預言者)に対する人民の服従の約束によって基づけられていたことを論証してみせた。
福岡さんが明快に再構成してくれるホッブズの聖書解釈の巧みさに、読者は何度も唸らされることだろう。だが、一層スリリングなのは、こうしたホッブズの議論との並行関係と対抗関係の両面においてスピノザの『神学・政治論』を位置づける本書のさらなる考察である。福岡さんによれば、スピノザは、世俗的主権者を介さない神の言葉への直接的訴えが現世の秩序を不安定にする危険についてホッブズと認識を共有しながらも、この問題を解決する際にホッブズが封印したさらに不穏な問題を公然と問い直す。「聖書の理性不適合性」という問題である。世俗の為政者による命令を拒むためであれ、ホッブズ的な「主権的預言者」への服従においてであれ、いずれにせよ、われわれの生と死の意味を決する最高次の審級として引証される〈神の言葉〉が、ほんとうに確実に〈神の言葉〉を伝えていることの根拠は何処にあるのか? このことを正面から問い直すスピノザは、啓示や預言の「確実性」とは、数学的確実性のようなものでは全くない「心性的確実性」にすぎないことを理性的に検討してみせる。それが、聖書の教える真の「敬虔」の何たるかを明らかにする確かな道であると、彼は考えていたのである。
高度な論証の精密な再構成を試みつつ、読者をけっして置いてけぼりにしない福岡さんの丁寧な論述は、賛嘆に値する。私は、「哲学する自由」の論証をめざすスピノザの議論を福岡さんの懇切な解説に導かれて辿りながら、〈神の言葉〉をめぐる思想内容の不一致を理由に互いを攻撃しあう者たちの「不敬虔」が暴かれていくように思われて、痛快きわまりなかった。法規範の最終的な根拠をめぐる問題や「思想の自由」といった主題に関心のある皆さんに、是非とも熟読玩味してほしい。

(超域文化科学/哲学・科学史)

第621号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報