HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報622号(2020年11月 4日)

教養学部報

第622号 外部公開

香港国家安全維持法をどう捉えるか

川島 真

二〇二〇年六月三十日、香港国家安全維持法が制定され、即日施行された。七月一日の香港返還記念日に際しての政治運動に備え、また九月に予定されていた立法会選挙の立候補受け付けが七月中旬に始まることなどを視野に入れ、このタイミングで制定されたものと思われる。また、アメリカが二〇一九年に成立した香港人権・民主主義法に基づく報告書の公表を五月初旬に見合わせたことなどから、報告書が出る前に中国側としての対抗措置を取ったものともみて取れる。この法律の策定施行に際しては中国共産党の政法委員会系が深く関わり、また公安部門も昨年から準備していた形跡も見られる。短期間で準備されたものではなく、すでに一定程度準備がなされた上での法の制定、施行だったが、それでもその制定過程には性急さが目立った。
この法律の策定、施行により、一九八五年の中英共同声明、一九九〇年の香港特別行政区基本法に基づいて実施された一九九七年七月の香港返還に際して中国とイギリス、あるいは中国と国際社会との間に形成された「一国二制度」に関する、また香港のあり方に関する暗黙の合意事項が崩れることになった。そして、一九九七年返還当時の中国と香港社会との合意もまた置き去りにされることになった。これは香港人にとっては生活、生命の基盤を揺るがすものだし、香港に関わってきた外国人にとっても、香港の持つ意味や魅力を大きく減じる衝撃だ。だが、中国はあくまでも、今回の措置を「一国二制度」の枠内でのことだ、とするだろう。それだけ、この法律への捉え方や評価はこれに関わる主体それぞれによって異なる。こうした点を踏まえ、香港国家安全維持法の捉え方について、いくつかの論点を提示しておきたい。
第一に、この法律の制定、施行による北京政府と香港社会との関係の変化である。この法律の施行により、一定の制限内で、中国の公安組織などが直接香港特別行政区内で法執行を行えるようになり、また香港で逮捕された香港籍の住民が中国境内(中国領から香港、マカオを除いた地域)に移送される可能性もある。また外国人にとっては、香港、また中国域外での言動も罪に問われることになる。従来、香港基本法などで国家反逆罪などはすでに規定されていた。だが、法の運用や執行などは香港の司法管轄権内にあった。だが、それが今回の法律で覆された。そしてこの法律の解釈権もまた北京側に属する。これらのことは、香港における個人の「自由」、安全保障を脅かす問題である。
第二に、北京から見た場合、香港はアメリカにも注目され、またアメリカなど西側勢力の対中戦略拠点となっていると映る。中国は、アメリカが香港問題などで内政干渉しているとみなしている。中国もまたPKOなどで人民解放軍を他国に派遣するが、それは相手国や国際社会が望んでいるとの前提がある、と中国はみなしている。香港住民がアメリカの関与を望んでも、中国がそれを望まないから内政干渉だ、と言う認識だ。
第三に、北京中央の対香港政策を中国人の圧倒的多数が支持しているという現実もある。香港やマカオ以外の中国の「境内」では、習近平政権以後、特に社会管理統制が強化されており、「自由な」香港との自由度の格差は拡大していた。それだけにその「自由な」香港がアメリカなどに狙われ、利用されているから、中国全体の「国家の安全」の見地に立って、守らなければならない、ということになる。このような発想が今回の法律制定の背後にある。そして、中国の圧倒的多数の人々は、「自由すぎる」香港の社会に対する管理や統制を強めることに異論はない。香港の人々と、中国の人々との断層は大きい。
第四に、北京から見た香港の価値の変容がある。一九九七年の返還当時、香港の魅力は経済規模とともに、その金融センターとしての役割にあった。その後、深圳の経済規模が香港のそれを上回っても、金融センターである香港は、先進国を始め世界から中国への投資の経由地、バッファー、あるいはアジールとして重要だった。輸出加工型の経済発展を目指した中国にとって外国からの直接投資は極めて大切であり、香港は外国からの投資受入の「要」であった。しかし、胡錦濤政権後半期に従来は単独の国家目標だった「経済発展」に、「(国家の)安全」や「主権」などが新たに加わり、習近平政権期には「国家の安全」が「発展」を上回ると、香港の価値が変化し、その金融センターとしての役割よりも、国家全体の安全の方が優先された。その結果が国家安全維持法の制定だと見ることもできる。
第五に、台湾と香港との相違点と関係性だ。香港基本法の解釈権を北京の全国人民代表大会が握る現状の下、国家安全維持法が適用された香港の人々にとって、合法的な手段で自らの将来を決め、「香港人が香港を統治する」状態を実現することは極めて困難であり、実質的には不可能に近い。この点、中国からの軍事的脅威はあるにしても、自らの将来を合法的に自らで決めることができ、「台湾人が台湾を統治する」状態を実現できる台湾は大きく異なる。また、香港へのこのような施策が台湾統一に影響するという見方もあるが、もはや北京政府は香港への政策と台湾統一政策を切り離したか、あるいは二〇一九年年頭の習近平発言のように、台湾統一のために武力行使を辞さない、と言うことなのかもしれない。

(国際社会科学/国際関係)

第622号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報