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最終更新日:2021.02.03

教養学部報

第622号 外部公開

<本の棚> 東京大学教養学部 歴史学部会 編 『東大連続講義 歴史学の思考法』

藤岡俊博

年号や人名を覚えること、事件の隠れた背景を知ること、偉人の意外な一面に驚くこと―授業科目であれテレビ番組であれ、過去の出来事や人物に関する情報という平凡な理解からすれば、「歴史」と「思考」の結びつきは不思議に映る。それだけではない。本書が掲げるのは、歴史「学」の思考「法」である。歴史をめぐる思考を開陳するだけでなく、学問領域としての歴史学がおこなう思考の方法論を本学部・歴史学部会が平明にまとめたのが本書である。
本書は前期課程の歴史学のテキストとして編纂されている。複数の著者からなる論文集、しかも歴史学という、時代・地域の個性の強い分野であれば、雑多な印象を与えるのが普通だろう。だが「歴史学的なものの見方・考え方」を解説する本書には、世界の郷土料理がコースで供されるような、多彩な味わいを含む統一感がある。
俎上に載る方法や概念も実に豊富だ。成長モデルと周期モデル、暦と歴史叙述、口頭伝承、アナクロニズムといった、時間にまつわる思考様式に、国民国家、帝国、地域などの空間的な把握方法が有機的に接続され、そこから世界像、儀礼、家族史、日常史といった多様な題材が展開される。もちろん、史料批判、マルチ・アーカイバル・アプローチ、オーラル・ヒストリーといった歴史学の狭義の手法の説明も添えられる。
方法論が基調をなすとはいえ、歴史学においては、主題の設定それ自体が、使用する方法論の反映であって、方法と対象は切り離せない。しかし、歴史の知識の提供を目的としないという趣旨にもとづき、著者たちが各自の専門に触れる際の手付きには抑制が利いていて、微に入った細部に退屈を覚えることはない。むしろ、散りばめられた具体例が適度な刺激を与えるスパイスとなっている。ふんだんに使用された図版や写真も同様の効果をもつ。どれもが面白い事例だが、たとえばローマ共和政期の暦や、イスラームの地理学者による一二世紀の世界地図、シャリヴァリの銅版画など、「これは一体なんだろう?」と読者の思考を促す仕掛けが各所に配置される。
また、本書は歴史学の教科書でありながら、環境史、人類学、民俗学、政治学、文学、哲学などの他分野との対話を疎かにしない。言語論的転回、グローバリゼーション、脱植民地化、パラダイム、通約不可能性、他者理解などの用語が、ときには章を貫いて登場し、本書一冊で文系諸学問の知的装置が通覧できるようになっている。領域横断的な本書の構成は、歴史学が、独善的にではなく反省的に自己を定位する謙虚さの表れでもある。評者になじみ深いところでは、現象学の祖・フッサールまで援用される。
そのフッサールには有名な逸話がある。子どもの頃、ナイフをお土産にもらった彼は、一生懸命に研磨した挙げ句、刃が無くなるまで研いでしまったというのだ。現象学の方法をたゆまず精緻化し続けたフッサールの哲学的営為を予感させるエピソードだが、これを一般化すれば、一つの道具への盲信は、たとえ純粋であっても、道具そのものを摩滅させ、使えなくしてしまうということだ。そもそも、道具の選択を誤れば、出刃で桃を剥く仕儀にもなりかねない。しかも、切るだけが道具ではない。細かいものを拾う菜箸も要れば、こぼれるものを掬うお玉も必要である。道具に対する反省的態度は、それを使用する者にも跳ね返る。各章の末尾には、詳細な参考文献リストと、より深く知るための文献が挙げられている。本書という道具のなかに、使用者自身の成長への道筋が示されている。
最後に粗末な個人史に触れるのをお許しいただきたい。二十年前、文科三類に入学した当初の私は、高校の恩師である小川幸司先生に憧れ(先生は現在、長野県蘇南高等学校長で、歴史教育に関して積極的に発言されている)、西洋史学科への進学を考えていた。が、当時は歴史教科書をめぐる喧騒の真っ只中で、自己の顕揚と他者の軽視のために歴史を利用するひとたちを前に、私は歴史学に携わる気概をついにもてなかった。本書を通じて歴史学の思考法を学んでいたら、そして本書に示される先生方の「歴史への真摯さ」に接していれば、進路は違っていたのだろうか。歴史の食卓に「鱈・レバー」は並ばないと言うが、本書は私に、自分に訪れなかった過去を、別の誰かの未来として夢想する喜びを与えてくれる。

(地域文化研究/フランス語・イタリア語)

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