HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報625号(2021年2月 1日)

教養学部報

第625号 外部公開

<送る言葉> 粋人を送る

河合祥一郎

 「粋」という言葉が彼ほど似合う男もいない。オートバイを乗りこなし、常に颯爽としていて恰好いいこの人にも定年という時がやってくるとは俄かに信じがたい。
 古典演劇から現代の舞台芸術一般まで広く通じ、とりわけダンス、舞踏の専門家であるパトリック・ドゥヴォス先生とは、同じ演劇畑ということで本当に長いお付き合いをさせて頂いた。大学内で会うより劇場などで会うことのほうが多かったかもしれない。最近では、二〇一九年、太陽劇団主宰の演出家アリアーヌ・ムヌーシュキンが京都賞を受賞したが、選考過程やムヌーシュキン来日にあたってのドゥヴォス先生の活躍ぶりが特に印象に残っている。それこそ誰にも真似できない尽力をなさっており、そんな一例をとっても演劇の分野で日本と世界とを結ぶ大きな貢献をし続けてきた先生の力の大きさを痛感する。
 二〇〇一年に太陽劇団が来日して文楽の手法を用いて『堤防の上の鼓手』(新国立劇場)を上演したとき、私が公演に対して批判的な意見を言うと、ドゥヴォス先生が意外そうな顔をなさって二人で少し議論をしたのもよい思い出だ。
 先生は、大江健三郎、谷崎潤一郎、井上ひさし、野坂昭如などの日本文学の翻訳にも尽力なさって、村上春樹の『羊をめぐる冒険』のフランス語訳では第二回野間文芸翻訳賞を受賞した。村上春樹の世界的評価の高さの背景にはこうした優れた翻訳があることは言うまでもない。
 日本人なのかと思うほど日本語に堪能で、複数の文化をまたいで高度な演劇論・文化論を論じることのできるベルギー人教員が東大からいなくなるのは、本学にとって実に大きな損失だ(先生は、大学院入試の際に日本語で書かれた論述問題や論文を読むのに苦労をなさっており、逆に言うと、そうした苦労を人一倍なさりながら大学に貢献してくださったことに今更ながら頭が下がる)。
 歌舞伎にも造詣が深く、パリのオペラ座で歌舞伎が上演されればフランス語字幕を担当するといった活躍もなさってきたが、たぶん一番のご専門は舞踏であり、土方巽や大野一雄の研究では大きな貢献を成していらした。そして二〇二〇年には、ついに大野一雄論で博士号を取得した教え子が出て、後継者育成も名実ともに成って誠にめでたい仕儀となった。私もこの博論審査に参加させていただいたが、この博論が先生の指導の賜物であったことを確信した。
 退官後はどうなさるのか予定を伺っていないが、先生のことだから、これまでどおり軽やかなステップで欧州と日本とを行き来して、研究や鑑賞を続けられるのだろう。私もぜひ見習いたいと思う。少し長くフランスに滞在したら、彼のように粋を身に着けられるようになるだろうか。

(超域文化科学/英語)

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