HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報625号(2021年2月 1日)

教養学部報

第625号 外部公開

<駒場をあとに> 教えられ導かれて二十九年

安岡治子

 ここ一、二年、定年とは、人生の終末を迎える時の予行演習のようなものかもしれないと思うようになった。人生の終末に来し方を振り返ることができるとしたら、私は聖書の「タラントンの喩え」のように、天から預かった僅かなタラントンを生涯何の努力もせずに全く増やすことができず、「怠け者の悪い僕だ」と主から叱責されるに違いない。
二十九年間勤めた駒場を去る今、同じような叱責の声は痛いほど感じるのだが、同時に、この駒場の環境に置かれたからこそ、乏しいタラントンをほんの僅かながら増やすことができたのかもしれないとも思う。
 私が駒場に赴任したのは一九九二年、長かった昭和も終わり、ソ連邦が崩壊した直後のことだ。当時の駒場のロシア語部会は七人ものメンバーがいた。その後すぐに大学院の重点化があり、私は地域文化研究専攻に所属することになった。駒場の中でもこの二つの組織に入れてもらえたことは、私にとって大きな幸せであった。
 駒場に来るまで私は、ロシア革命後の新しい時代に応えるように一九二〇年代から三〇年代に様々な文体やテーマで小説を書いたゾーシチェンコやプラトーノフなどの作家、また一九七〇年代に「農村派」と呼ばれた作家の一人ラスプーチン(帝政末期の怪僧ではない)の小説を研究対象としていた。
 一九九一年の暮れにソ連邦のまさかの崩壊があり、二十世紀ロシア文学史は根本的な見直しを迫られた。現存の作家たちも、ロシアが今後進むべき方向について、一九世紀のスラヴ派と西欧派以来の論争に参加せざるを得なかった者もいる。(ラスプーチンもその一人である。)さらにソヴィエト時代には禁書扱いで長らくソ連国内では研究が進まなかったキリスト教思想関係の図書も大幅な復刻が進んだ。
 こうしたロシア本国の環境変化と共に、私が地域文化研究専攻に配属されたことも、その後の私のささやかな研究の道に少なからぬ影響を与えたと思う。文学作品のテクスト分析において、その背景にある歴史、宗教、思想、民族、芸術など、つまりはロシア地域文化についてそれまでより深く考えるようになったからである。
 ロシアは、十九世紀末から二十世紀前半にかけて、キリスト教思想の復活の時期を迎えたのだが、その思想家の中には数学者にして二十世紀に天動説を支持したフロレンスキーや今まで生きた全ての祖先の復活を考えたフョードロフなどもいた。フョードロフは、キリスト教の「肉体の復活を信じます」というクレドの大真面目な実現を考えた思想家だが、彼の考えた「復活事業」とは、弱肉強食の原理を打ち砕く、自然と身体の変容を目指すものだった。この一見荒唐無稽な思想は、死と復活の意味を問う『カラマーゾフの兄弟』を書いたドストエフスキーにも、不和反目のない兄弟愛に満ちた世界の到来を夢見たプロレタリア作家のプラトーノフにも強烈なインスピレーションを与えたと言われている。
 私はこのフョードロフの思想や、ドストエフスキーと東方キリスト教、また一九二〇年代の亡命思想家たちが考えたユーラシア主義について、そしてこれら全ての根幹にあるロシア独特のリーチノスチ(人格・個性)の概念について、ここ三十年近く考察してきたと言える。
 駒場では、極めて聡明な同僚たちと学生たちに恵まれた。日常的なこれらの人々とのコミュニケーション無くしては、私のささやかな研究は一歩も前へ進まなかっただろう。同僚たちはもとより遥かに仰ぎ見る名峰であったが、駒場を飛び立ち日本各地のみならず世界にも羽搏いて行ったかつての学生たちも、いまや私が教えを請う存在である。
 駒場での勤めも、なんとか大過なく終えられそうかと思っていた矢先、忽然として湧き起こったコロナ禍によって、授業も会議も試験までもがオンライン化するという事態に立ち至った。こんなことが無くとも、事務の方々には日頃から大変なお世話になって、どうにか今まで駒場で生き延びてきたのだが、今年度の大変動の中で、同僚の先生方や事務の方々の計り知れぬ友愛、途轍もない忍耐強さに、私はあらためてしみじみと感謝した。
 オンライン化を推進した超有能なるT先生は、ある会議で「駒場の全教員を一人も取り零すことなくオンライン化に導かなければならない。私は、同僚の女性で眼も悪く来年定年を迎える先生にもわかるようなオンライン・ガイドを書きます」と述べられた由。緑内障を患い、全くの機械音痴の私を念頭に置いた発言である。まさに一人残らず全員の救済・復活を目指したフョードロフの精神ではないか。そのお言葉どおり、懇切丁寧に書かれたガイド書類のおかげで、私のような者でさえも、何とかオンライン化の波に乗ることができた。優秀な駒場スタッフは、偉大なる教育者でもあるのだ。
 皆さま、ほんとうにありがとうございました。心より御礼申し上げます。

(地域文化研究/ロシア語)

第625号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報