HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報625号(2021年2月 1日)

教養学部報

第625号 外部公開

<送る言葉> 安岡先生を送る言葉 ─ロシア語部会の灯としての顔

渡邊日日

 安岡先生のお名前に筆者が初めて接したのは三〇年ほど前のことだ。学部生の頃に読んだ小説の訳者としての〈安岡治子〉である。ロシア文学・ロシア音楽への関心からロシア語を選択、群像社の「現代のロシア文学」シリーズにあるラスプーチンの『マリヤのための金』(一九八四年)を手にしたのだった。ラスプーチンはシベリアのイルクーツクに生まれた作家で、アスターフィエフらとともに二〇世紀後半のシベリア文学を担う人物だが、当時の筆者はシベリアの文化人類学者になろうとは思っておらず、もちろん、そのあと駒場での苦労をともにする〈同志〉のお仕事とは想像しようもなかった。
 安岡先生のお顔は複数ある。ロシア文学と思想・宗教(ユートピア、メシアニズム、東方正教など)との相関性の研究者の顔。ラスプーチンやドストエフスキーの翻訳家としての顔。ロシア語教育者の顔。ここでは、ロシア語部会の一員としての姿とも重なるゆえ、最後の顔について触れたい。
 ロシア語学習書は数多く出版されるようになっているが、実際に〈使える〉もの、つまり一定以上の範囲の文法を網羅して示し、高度な読解のときにも参照できるものは少ない。そのなかで、二〇一一年に研究社より出された先生の『総合ロシア語入門』は最高峰と言って良い。昨年度、定年退職されたゴルボフスカヤ先生との共著、『基礎から学ぶロシア語発音』(二〇一六年、研究社)とともに、学習者の長い道のりを明るく照らしてくれる。この二冊は、安岡先生が最上クラスのロシア語教師であったことの何よりの証左である。
 実務の面でも光を照らしていただいた。その例の一つとして、部会と地域・ロシア東欧コースとの〈橋渡し〉がある(両者の関係が悪いということではありません!)。部会のメンバーの所属先が超域や言語といったようにバラバラで、時間割のすり合わせなど気苦労が絶えなかったのでは、と想像する。
 部会のなかでも複数の顔をお持ちだった。一方で〈配慮〉の先生。様々な形で気配りをしていただいたが、〈安岡ラベル〉(お名前と綺麗な花模様が印刷された小さなシール)が貼られた葡萄酒は部会のなかで、ときには部会を越えて、種々の相互作用を動かす一種の〈通貨〉となっていた。部会は今後、通貨なき世界に逆行するのだろう。他方で〈せっかち〉な先生。急に電話がかかってきて、「メール読んだ?」で始まる早口の発話を耳にするのも日常だった(一、二時間前に発信されたメール...少し時間をくださいな)。授業の進み方も早く、学生たちは、某社の語学参考書の題名をもじって「エクスプレス安岡」と愛称をつけていたはずである。
 約二十年、同僚として、駒場という「...な」(最適な形容詞を補ってください)労働環境のみならず、〈少数部会の幸いと悲哀〉をもともに味わってきた先生が退職されるのは信じがたいことである。いろいろとモラル・サポートを受けた者として今後途方に暮れそうなのであるが、大きな声で、「安岡先生、お疲れ様でした!」。

(超域文化科学/ロシア語)

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